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市民の反抗   飯田実


「森の生活──ウォールデン」の著書として日本人にもなじみ深いアメリカの文学者、ヘンリー・ディヴィット・ソロー(1817─1862)は、自然、人生、社会改革、文学など、さまざまなテーマをめぐる興味深いエセーを数十篇書き残している。本書はそれらのなかから、各テーマに沿って、代表作と思われる六篇を選び、訳出したものである。

 ソローの著作は、ほとんどつねに彼自身の経験と観察、およびそれに基づく思索の結果を述べたものであるが、多くの作品を通して彼が提起している問題は、きわめて現代的であり、時代や国家のへただりをほとんど感じさせないほどである。本書に収められた諸論文においても、たとえば、国家に対する個人の良心、地球環境の保全、自然と文明の共存、情報化社会の到来、拝金主義をもたらす人心の荒廃といった、いわば全人類的課題が先取りされ、問題の根源にまでさかのぼって、根本的(ラディカル)に検討されていることに読者は気づかれるであろう。ソローのもつこうした側面は、「森の隠遁者」といった一面的なイメージでは、決してとらえることのできないものである。

 ソローの主要作品はすべて、最初はまず講演というかたちで、地域の一般市民に公開された。彼は四十五年に満たないその生涯において、七十数回の講演をおこなっている。このことはね彼のエセーの構成、文体、レトリックのみならず、その思想内容にまで、きわめて本質的な影響を及ぼさずにおかなかった。「市民の反抗」や「原則のない生活」に見られるように、彼はデモクラシー社会の長所とともにその弱点を徹底的に知り抜いていたて人間であり、ときには聴衆に向って、歯に衣着せぬはげしい口調で、その安易な生活態度を批判したりもしているが、彼がみずから暮らす地域社会に背を向けたことは一度もなかったのである。むしろ、最後まで人間社会の未来に希望を託していた。彼が病気で倒れるまで、倦むことなく同胞の前で語りつづけたことが、そのなによりの証拠であろう。

 ソローの生涯と作品については、岩波文庫「森の生活」下巻の解説に略述しておいたので、関心のある方はそちらを参照していただければさいわいである。ここでは、収録された六篇のエセーの成立事情と、伝記的もしくは社会的背景、後世の評価などについて簡単に述べ、読者の参考に供することにしたい。

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「市民の反抗」
 1848年1月、ソローは故郷コンコードの文化協会において、「国家に対する個人の権利と義務」と題する講演をおこない、しばらく前に彼自身が経験した投獄事件についても、はじめて公の場で語った。この講演原稿は「市民政府への反抗」の題名で、1849年5月号の「エステテイック・ペーパース」誌(一号だけで廃刊)に発表され、ソローの死後、「市民の反抗(不服従)」と改題されて「カナダのヤンキー」(1866) に収録された。一般には後者の題名で通っているので、本書でもそれを踏襲したが、最近のプリンストン大学版ソロー全集では、「市民政府への反抗」に復している。

 ソローは奴隷制度をめぐって、五つの重要な「社会改革論文」を書いている。その最初にくるのが、「市民の反抗」であり、二番目は1854年の逃亡奴隷法の成立に反発して書かれた「マサチューセッツ州の奴隷制度」(1854)、ついでハーパーズ・フェリー襲撃事件を契機に書かれた「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」「ジョン・ブラウンの殉教」(ともに1859)、「ジョン・ブラウン最後の日々」(1860)の三篇である。

 「市民の反抗」が書かれるきっかけとなったソローの投獄事件は、彼がウォールデン湖畔でひとり暮らしをはじめてからちょうど一年目の。1846年7月に起こった。修理に出しておいた靴を受け取りに、ウォールデンの森を出て村へ向う途中、彼は知り合いの保安官(収税吏を兼ねていた)のサムに呼び止められ、数年前から未払いになっていた人頭税の支払いを求められた。人頭税というのは、当時のマサチューセッツ州が二十歳から七十歳までのすべての男性に課していた税金である。サムは「君が困っているなら、立て替えておこうか?」と親切に申し出てくれたが、ソローは「いや、これは原理原則の問題だから」と断った。サムは「それじゃあ、このわしはどうすればいいんだ?」とたずねたのに対して、彼は「保安官をやめたらいいじゃないか」と応じたらしい。さすがのサムもはらにすえかねたのであろう。かれをこの村にあった群の刑務所に投じてしまった。

 ソローはあらゆる税金の支払いを拒否したわけではない。このエセーでも述べているように、地域の正常な市民生活を維持するために不可欠な税金、たとえばと公道税などは、市民の義務のひとつとしてきちんと支払っていた。彼の人頭税支払い拒否は、「議事堂の入口で、男や女や子供たちを家畜のように売買する国家」(岩波文庫「森の生活」上巻)の方針に抗議するためであり、のちには、1846年にはじまるメキシコ戦争(彼はそれを侵略戦争ときめつけた)を引き起こした政府への抗議がそれに加わったのである。

 この投獄はソローをひるませるどころか、ますます奮い立たせる結果となった。「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまた牢獄である」からだ。もしその晩、何者かが彼の意に反して、夜陰にまぎれてこっそりと彼の税金を支払ってしまわなかったならば、牢獄生活はずっと長びいたことだろう。翌朝、早々に釈放されるこになったソローは、大いに憤慨し、出獄を拒否しようとしたが、無駄であった。彼の投獄は、こころならずも一晩だけで終ってしまったのである。

 この論文の中心テーマは。あらゆるタイプの国家に生じ得る、政治的不正に対する個人の責任と、政治的権威とのあいだの相克である。ソローの論旨は始終明快であり、一貫している。それは二つに要約することができよう。まず第一に、連邦政府あるいは州政府の法律や政策が、個人の良心──より高い道徳的法則──と矛盾をきたすような場合には、前者よりも後者のほうが尊重されるべきである、ということである。第二は、政府が著しく正義の観念にもとるような「暴政」に走った場合には、市民は納税拒否といった平和的な手段に訴えて政府に抵抗する権利を有する、というものである。

 ソローはもともとに、政治や社会改革運動にはさほど関心をもたない人間であり、自分には生きているあいだにやらなくてはならない、もっとたいせつな仕事があると考えて、この投獄事件が起きたこところは、ウォールデンの森で一種の隠遁生活を送っていた。ところが二十世紀にはいると、「市民の反抗」は、国内国外を問わずおどろくほど広範囲のひとびとのあいだで読まれるようになり、今日では、アメリカ人の書いたもっとも社会的影響力の強い論文の一つされている。まさに歴史のアイロニーと言ってよい。

 たとえば、二十世紀初頭に成立したイギリス労働党は、「市民の反抗」を政治テキストの1冊として出版しているし、インド独立の父ガンジーは、彼の非暴力的不服従運動を展開するにあたって、このエセーを肌身離さずもち歩いていたという。第二次世界大戦中のヨーロッパでは、それが反ナチ抵抗運動のマニュアルとされ、アメリカの黒人市民運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師は、若いころこの論文と出会って感奮したと述べている。ヴェトナム戦争のさなかにも、「市民の反抗」は学生や反戦運動家たちのあいだでさかんに読まれ、近ごろは、環境保護運動を含むさまざまな市民運動にたずさわるひとびとのあいだで熱心に読み継がれている。

 このエセーに盛られた思想が、広範囲のひとびとの共感を得たのは、それが単にソローの強烈な個性に発しているばかりでなく、人類のより普遍的な原理に立脚しているからであろう。彼が主張する個人の良心の優位性とは、もともとアメリカ東部のピユーリタン的伝統に根ざすものであり、政治的手段としての納税拒否は、独立革命直前のアメリカ植民地人たちが、宗主国イギリスの暴政に対する抗議手段としてもっとも頻繁に用いたやり方のひとつであった。また、彼が唱える政府への抵抗権は、アメリカの独立宣言の冒頭に謳われている革命権の再確認にほかならない。さらには、このエセーの訳注でも述べたように、「政府の統治権は小さいほどよい」とか「政府は個人の思想や良心に介入すべきではない」といった彼の考えは、当時の知識人やジャーナリズムに広くうけいれられていた思想であって、その源泉をたどれば、おそらくトマス・ペインなど、革命時代の思想家までさかのぼるのである。

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「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」
 1860年に刊行されたジェイムズ・レッドパス編集の「パーパーズ・フェリーの反響」に掲載され、ソローの死後、「カナダのヤンキー」(1866)に収録された。

 長年にわたって、カンザス準州などで奴隷解放運動を展開していたジョン・ブラウンは、1859年10月16日、三人の息子を含む二十一人の部下を率いて、ヴァージニア州ハーパーズ・フェリーにあった連邦政府の兵器庫を襲撃し、のちに南軍の総司令官となるロバート・リーを指揮官とする鎮圧部隊と戦い、二日後に重傷を負って捕らえられ、裁判にかけられたすえ、同年12月2日、反逆罪のかどで絞首刑に処せられた。はじめから勝算を度外視したこの無謀な蜂起は、南部の黒人奴隷たちが彼等にならっていっせいに蜂起することを期待してのことだったといわれる。しかし黒人の蜂起は起らず、それどころか事件が報道されると、それまてブラウンを支援して誌絵かいたひとびとまで彼への支持を取り消し、むしろ批判する側にまわりはじめた。

 そうしたなかで、ソローはいち早く、ブラウンの弁護に乗り出したのである。襲撃事件から半月後の10月30日、彼はコンコードのタウンホールに村民を集め、ジョン・ブラウン弁護の講演をおこなった。彼は、地域の共和党員から、いまの時期にそうした集会をひらくのは適当でないと言われると、「私はあなた方に助言を求めているのではない。集会を開くという通知をさしあげているのだ」と言い、村の行政委員たちが村民招集の鐘を鳴らすことを拒否すると、みずからそれを打ち鳴らしてひとびとを集めたという。

 「市民の反抗」のなかで、ソローは納税拒否といった、より穏当な手段による一種の平和革命、ないし非暴力的不服従運動を提唱している、と考えた読者は、この論文において、彼がブラウンのような暴力的手段によって制度の変革を強行しようとする人間を賞賛し、あまつさえ彼をキリストにも匹敵するピューリタンの英雄としてほめ称えているのを知って意外に思われるかもしれない。しかし、ソローはブラウンの暴力的抵抗そのものを賞賛しているわけではない。むしろ、このエセーの主目的は、ブラウンの宗教的な自己犠牲精神や、虐げられた者たちへの愛や、アメリカ憲法に盛られた人権思想への彼の忠実さなどを称え、それとは対照的に残酷な奴隷制度をなりふりかまわず維持しようちとする政府とその支持者たちを攻撃することにあった。

 ここで、日本ではあまり知られていないジョン・ブラウンという人物の経歴について簡単に述べておきたい。
 ブラウンは1800年にニューイングランドのコネティカット州で生まれ、五歳のとき両親ともにオハイオ州に移って、そこで育てられた。彼の祖先は1620年にメイフラワー号に乗って大西洋を渡り、プリマスに上陸した生粋のピューリタンであり、彼と同じ名の祖父はアメリカ独立革命で勇敢に戦ったという。ブラウンの父親はシカ革のなめし業をしていた。彼はこの父親の影響で、早くから徹底した奴隷制反対論者となったらしい。その後、彼自身も革なめし業や牧羊業、羊毛貿易、土地測量業などにたずさわったが成功せず、1849年、ニューヨーク州に移り、家族とともに農場を経営していた。

 1854年5月にカンザス・ネブラスカ法が成立し、これがブラウンの奴隷制反対闘争の大きな転機となった。この法律は、北緯36度30分以北の準州における奴隷制を禁止した1820年の「ミズーリ協定」を廃棄し、カンザスとネブラスカの二つの準州において、住民投票によって奴隷制の可否を決定する、としたものであるが、反対派にとっては、西部に奴隷性を導入する意図をもって発議された悪法であることは明らかであった。カンザス準州には、住民投票を有利に導こうと、東部や南部から自由派と奴隷制支持派とが続々と流入し、両者のあいだにはげしい流血の抗争がくりかえされることになった。

 1855年、ブラウンはまず、五人の息子たちをカンザス準州に移住させたあと、みずからも現地に乗り込んで、オサワトミーでゲリラ部隊を組織し、「辺境のならず者たち」と呼ばれていた奴隷制支持派とはげしく戦い、一躍名を挙げた。1856 年5月にはね「ならず者」による反対派虐殺への報復として、ポタワトミーでの奴隷制支持派の住民五人を殺害し、世間を震撼させる。しかし、北部では彼は依然として奴隷制反対派の英雄とみなされていた。

 1859年10月のハーパーズ・フェリー襲撃によって処刑されたブラウンは、その後、北部においては奴隷解放運動の殉教者とみなされるようになり、その死を称える歌、「ジョン・ブラウン・ボディー」は、南北戦争中に北軍の進軍歌としてもっとも頻繁に歌われた。

 以来、ジョン・ブラウンの人物とその業績に対しては、アメリカ国内でも毀誉褒貶がくりかえされている。歴史家たちは一般に、彼を一種の宗教的狂信者とみて批判する傾向が強いようだ。しかし一方で、彼を扱った書物はね現在でもおよそ五十種類ほど刊行されており、新刊書もつぎづきと出版されている。ブラウンはねいまなおアメリカの庶民の英雄のひとりとして、人々の想像力を刺戟してやまないらしい。

 このエセーのなかで、ソローは、「私はひとを殺したくもないしもひとに殺されたくもない。しかし、そのどちらも避けて通れない事態が生じるのではないか、という気がしてなりません」と言っている。彼の予感どおり、それからおよそ一年半ののち(1886年4月)に、南北戦争が勃発することになるわけである。

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「歩く」
 ソローはこのエセーの材料の大部分を、1850年から52年にかけての「日記」から得ており、1852年から57年にかけては、たびたび講演の原稿としてそれをさ用いていた。その最終原稿は、彼の死後まもなく、1862年6月号の「アトランティック・マンスリー」誌に掲載された。
 「歩く」は、主として「歩くこと」の意義を論じた前半と、「野生」の本質を論じた後半の、二つの部分に分けられる。その点、やや全体的な統一に掛けるらみがあり、作者自身もこの点を意識して、のちにはそれを二つの講演に分けて用いるようになった。

 散策と哲学との深い関係は、古代アテネの逍遥学派以来、今日まで途切れたことはないが、ヨーロッパの文学や芸術が、自然界を散策することの価値を本格的に発見するのは、十八世紀後半にはじまるロマン主義以降のことであろう。たとえば、イギリス・ロマン派の詩人たちがそれでる。イングランド北西部の湖水地方で閑静な田園生活を送っていた壮年時代のワーズワースやコールリツジは、一日三十キロくらいは平気で歩いたといわれる。彼らの多くは散策の達人であり、自然こそ誌的霊感の源泉であると考え、書物よりも自然から多くを学べると信じていた。事実、彼らは散策の途中で多くの試作品の着想を得ている。

 しかし、散策の意味を徹底的に追求し、散策をもって人間がよりよく生きるためのすぐれた生活技術であるとしたのは、おそらくソローをもって嚆矢とするであろう。彼は、一日少なくとも四時間以上、いっさいの俗事から完全に解放され、自然界をあてどもなく散策するようにしなければ、心身の健康を保てない、とまで言っている。彼にとって、それは中世の騎士たちの十字軍遠征や、巡礼たちの聖地詣でにもたとえ得る行為であり、ほとんど日常生活の中心をなすものといってよかった。散策のなかで出会う自然界に比べれば、政治やいっさいの俗事は、「葉巻のけむりのよう」に実体のないものにすぎないというのだ。

 このエセーに述べられた「野生」の観念は、ソローの自然観の核心をなすものである。彼にとって、すべてのよいものは野性的であり、人間の生活も、文学も芸術も、野生にちかいほどすぐれているとされた。生命とは野生そのものであり、野生とは自由の象徴にほかならなかったからである。

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森林樹の遷移
 1860年9月、コンコードの畜牛品評会がひらかれた日に、タウンホールに集まったミドルセックス群農業振興協会の会員達の前でなされた講演の原稿である。この講演は好評で、さっそく翌10月6日ノ「ニューヨーク・トリビューン」紙に掲載された。

 「森林樹の遷移」は、「マツ林が切り倒されると、たいていオーク材が育ちはじめ、逆弐、オーク材が切り倒されると、マツ林が育ちはじめのはなぜかという、村びとたちの疑問に答えるために書かれたものである。ソローの答えは、「いずれも種子から育つ」という、今日からみるとあっけないほど簡単なものであったが、彼自身の精細な観察に基づく種子拡散のメカニズムの解明は、当時のひとびとには新鮮にうけとめられたであろう。ソローも述べているように、森林樹の遷移に関する研究は彼が先鞭をつけたわけではなく、バートラムやラウドンといった先駆者がいたが、これだけ詳細で整った報告書を書いたのはソローがはじめてだつたらしい。

 博物学者(生態学者)としいのソローにとりわけ関心が集まるようになったのは、最近まで未公刊だった彼の自然研究に関する膨大な手稿の一部が、はじめて編纂出版されて以来のことである。ただし、意外にも生前の彼は、博物学に関する科学論文を二篇しか発表していない。一つは、二十四歳のころ書いた「マサチューセッツ州の博物誌」であり、もう一篇がこの「森林樹の遷移」である。いずれも、後年の専門家から、科学論文としての価値を高く評価された。

 ここには彼の人生論や社会改革論文にしばしばみられる、痛烈な批判や難解な逆説といったものはほとんどあらわれず、わずかに冒頭と結末のいちぶに其痕跡が認められる程度である。作者の語り口は、あくまでも客観的で平易であり、しかもユーモアとウィットに富んでいる。科学論文ではあるけれど、決して無味乾燥なものではなく、彼の晩年を飾るネイチャー・ランディングの傑作のひとつとしてとらえることができよう。

 ソローは十九世紀アメリカの偉大な文学者たちのなかでも、当時最先端の科学の動向にもっとも強い関心をよせていた人物であり、フンボルトからダーウィンにいたるヨーロッパの科学書をたんさん読んでいた。最近、ソローの科学的業績を調査した専門家によると、彼の自然研究法には、早くからダーウィンとの共通点が少なからずみられるという。

 彼の自然研究法は、ゆるぎない科学的客観性と論証性をそなえながら、同時に自然を単なるつめたい機械的な現象としてではなく、片時も休むことなく生成発展する有機的な、生きた現象としてとらえようとする一つの試みであった。いわば十九世紀自然科学の急速な発達によって生じつつあった、詩と科学の分裂の危機を克服しようとする彼なりの挑戦であったといえよう。

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原則のない生活
 ソローの死後一年以上を経て、1863年10月号の「アトランティツク・マンスリー」誌に発表された。彼が最後まで推敲の手を休めなかったエセ-の一つである。作品の材料は、18515年から55年にかけての「日記」から取られている。1854年以降、講演原稿としてたびたび活用されたが、作者自身、題名をつけるのに苦慮したらしく、「生計の立て方」、「全世界を手に入れたところで、魂を失えばなんの得になるか」など、講演のたびに少しずつ変えていたようである。このエセーで、ソローは彼の生涯わつらぬく中心思想をきわめて率直な言葉で要約している。「生計の立て方」を人生の重大事であるとする考えは、いかにも逆説好きなソローにふさわしいともいえるが、じつはこのテーマこそ彼の思索の核心をなすものであり、「森の生活」の第一章「経済」や、第二章「住んだ場所と住んだ目的」の中心テーマと重なっている。本編はそれら二つの章をさらに発展させ、補足したものであるといえよう。
 
 ソローはここで、「お世辞はいつさい抜きにして、批判すべきことだけを述べるつもり」と言っているように、最初からきわめて挑戦的であり、論争的である。ゴールドラッシュに沸く当時の世相を踏まえて、なりふりかまわぬ富の追求や流行におぼれる世間の風潮を、あるときはユーモラスに、あるときは筆鋒鋭く風刺するとともに、自己の原則(信念や志操)に忠実に生きることによってのみ、人生の道がひらかれることを力強く訴えようとしている。

 本篇は、その内容ばかりでなく、文体においてもソロー文学の頂点をなすものとされている。次のカーライル論にも見られるとおり、ソローは若いころから格言的表現を好み、それをもって理想的文体のひとつとしていたが、「原則のない生活」は、彼のエセーのなかでも、おそらくもつとも印象深い表現に満ちたもののうちに数えられるであろう。たとえば、
「われわれが耳にするニュースの大部分は、自己の本質にとっては目新しいニュースでもなんでもない」
「要するに、風の凪いでいるところに雪の吹き溜まりができるように、真理の凪いでいるところに制度が出現するのである」

 一見、批判的言辞に終始するかにみえるこのエセーのいたるところからにじみ出る、作者のユーモアと哄笑を読み取ることができるならば、彼の言葉の激しさに恐れ入ることなく、ゆとりをもってもって耳を傾けることができよう。コンコードの文化講演会の席に連なったひとびとのように。

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トマス・カーライルとその作品
 ソローは、ウォールデン湖畔に滞在中の1845年にこのエセーを書きはじめ、1846年2月に、「トマス・カーライルの著作と文体」の題で、コンコード文化協会において講演した。その最終原稿はまもなく彼の文学上の代理人であったホレス・グリーリーを通して、「グレアムズ・マガジン」誌に送られ、同誌の1847年3月号および4月号に分載された。ソローの死後、「カナダのヤンキー」に収録されるにあたり、約四千語が削除されたが、プリンストン大学版では著者自身の決定稿に復している。

 「トマス・カーライルとその作品」は、ソローが同時代の文学者を扱った唯一の文学批評であり、しかも彼が書いた唯一の本格的な文学論である。「文学者」としてのソローを理解するうえで、きわめて貴重な論文といえるだろう。

 このエセーを書いたころ、ソローは二十代後半の青年であって、処女作「コンコード川とメリマック川の一週間」もまだ出版されておらず、いわば文学修業中の身であった。彼は、意欲に燃える若い文学者として、古い世代の古い文学観を打ち破り、新しい世代の新しい文学観をうちたてようと模索していた。カーライルは格好の「標的」となった。ソローは当代一流の文学者を尊敬し、そこからあたうかぎりの栄養分を吸収しようとしているが、一方では、いたずらにすカーライルに心酔することなく、その欠点を鋭く見抜き、みずからの存在をかけてそれを乗り越えようとするのである。この論文は、カーライルが生前に受けた批評のなかでは、もっとも好意的なもののひとつとされているが、一読して明らかなように、それは同時にもっとも手きびしい批評ともなっている。ここにはあきらかにカーライルに対する筆者の敬意と、両面価値的なこころの揺れと、対象を乗り越えて成長しようとする若い文学者の意気ごみとが、複雑に交錯しているのである。

 十九世紀前半のイギリスおよびアメリカの文学界に、トマス・カーライルが占めていた位置を理解することは、いまとなってはかなりむつかしい。彼のようなスタイルの文学は、もうほとんど過去のものとなっているからだ。しかし、当時の多くの若い文学者たちにとって、彼は新しい文学の旗手であり、予言者であり、英雄ですらあった。イギリスの作家ディケンズもアメリカの作家メルヴィルも、カーライルの愛読者であり、ソローとおなじコンコードの住人エマソンは、長いあいだ彼と文通をつづけていた。

 ソローが、カーライルにおいてもっとも注目しているのはその文体である。彼のカーライル論は、ほとんど文体論に終始しているといっても過言ではない。もっとも、彼がカーライルから学んだのは、文体の独創性よりも、むしろユーモアと誇張法であった。彼にとって、ユーモアは、人間の正気を証し立てる不可欠の要素であり、とりわけ、超越哲学を軽く消化しやすいものにするためには、なくてはならない酵母のようなものであった。彼は、ユーモアこそカーライルの著作のもっとも大きな魅力のひとつとみなしたが、それはおそらく、ある程度まで、彼自身の作品にもあてはまるであろう。

 しかし、ユーモアにも、落とし穴がまちかまえている。それは長持ちしないからだ。ジョークとおなじように、ユーモアも「反復に耐えられない」。カーライル研究を通して、彼はユーモアの限界に気づき、自分の文章が過度にそちらの方向に流されないように、歯止めをかけようとしている。

 カーライルの誇張法についてはね彼ははるかに好意的なとらえ方をしているといえよえ。カーライルには歴史における英雄的なものを誇張する傾向があることを認めながらも、ソローは、誇張によってこそ人間の美点がとらえられ、真理が語られ、歴史が詩に高められるのだと主張している。彼にとって、誇張法は聴衆や読者におどろきと衝撃を与え、眠気を覚まし、問題の核心に一気に迫るのにうってつけの格言的方法そのものであり、ときには一種のショック療法でもあった。これはソローが「森の生活」のむすびのなかで「誇張」の必要性を説き、「私はむしろ、自分の表現が、まだ存分に度を越していないのではないか、といった点がひどく気になっているのだ」と言っていることと軌を一にしている。

 「トマス・カーライルとその作品」を、ソローの晩年の作品──例えば「原則のない生活」──とつきあわせてみるならば、彼がこうした文体観において、青年時代から晩年に至るまでおどろくべき一貫性を示していること、さらにそれをみずからの作品のうえに実践しようと、たゆみない精進を重ねていたことが、はっきりと見て取れるであろう。


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