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安曇野に絵本の学校を、飯舘村に美術館をつくろう

あんり3


原田朋子さんへの手紙

十年ぶりに安曇野を訪れて衝撃を受けたのは、廣瀬さんがもう一年も前に没していて、彼が打ち立てた「安曇野絵本館」がこの地上から消え去っていることでした。その衝撃の深さから「世界を転覆する日記」の第七号に、「草の葉」に投稿された廣瀬さんの五編のエッセイを編んだのは、彼を失った悲しみ、彼のなした仕事の大きさが私の中で波動していたからですが、さらにその波動はあなたへの手紙となる。

「世界を転覆する日記」は、私の言葉が届く親しき人に配布するだけの雑誌でしたが、この第八号から広大な荒海へと乗り出すのですが、その号の冒頭にあなたへの手紙を配するのは、それこそ世界を転覆する挑戦をするためなのです。私のいう世界の転覆とは、地平を切り開くための開墾を、変革を、創造をということなのですが、いまこのことが鋭くあなたに問われていると思うからです。

廣瀬さんにはともに絵本館を支えてきた夫人が、さらに子息が二人おられたが彼らに引き継がれることなく、その建物と土地が売却されてこの地上から消え去ってしまった。これは絵本館を引き継ぐということが、いかに困難な事業であるかを語っていることなのでしょう。十年ぶりにお会いしたわれらのスーパースターと熱くハグして、その相貌も、そのエネルギーも少しも衰えておらず私を安堵させたのですが、それでも「森のおうち」の経営の厳しさ、建物の老朽化、深まる老いを吐露され、あと三、四年は頑張ってみようと言われた。

そのとき私は、人生百年時代になりつつ今日、次第に流布しつつあるライフ・スパンの新理論、誕生から成人するまでが第一期、社会に乗り出す二十歳から六十歳までが第二期、そして六十歳から百歳までが第三期の人生であり、いま私たちに問われているのはこの第三期の人生をいかに創造的に生きるかであり、われらのスーパースターはさらに二十年は頑張ってもらわねば困ると応答したのですが、しかし刻々と「森のおうち」の経営と運営があなたにゆだねられる日が迫っている。

それはあなたの人生の最大の危機の一つであるにちがいなく、しかしあなたはこの危機に立ち向かっていくはずであり、そんなあなたにあなたの時代を創造するために二つの挑戦をしようと思うのです。あなたは画家にならんとして美術を専攻した人であり、そして母上が興した絵本美術館をサポートしているのも、やがてあなたは絵本作家としてこの地上に立つ人なのだというのが、あなたにお会いしたときの印象でした。事実、あなたに挿画などを依頼したことがあり、その作品はたしかにその片鱗を語っていました。ですからもうすでにあなたは何冊もの絵本を世に放っているに違いないと思っていたのですが、そうではなかったことが意外でした。しかし十年前に抱いていたあなたへの印象は、おそらく正鵠をえているはずであり、そんなあなたへの挑戦の一つが同封した「北風号の冒険」です。

この四十枚ほどの短編小説は、アメリカの絵本作家オールズバーグの「西風号の遭難」に触発して書かれたものです。小学校の国語の教科書にも採択されたこの「西風号の遭難」は、子供たちの心を圧倒的に捕えている絵本です。そのヨットが空を飛ぶというストーリーを、もっと劇的に、もっとリアリスティックに、もっと人生の陰影を彩色して飛翔させたのが「北風号の冒険」ですが、この短編に立ち向かって絵本にしてほしいという挑戦なのです。「北風号の冒険」はあなたの才能と格闘できる雄大なストーリーです。

そして第二の挑戦になる。安曇野平にはたくさんの美術館があって、その何館かを再訪しましたが、沈滞と衰弱となかにはすでに退廃と腐敗の気配さえただよわせている美術館もありましたが、そんななか松川村の「安曇野ちひろ美術館」は生気にあふれていました。広大な敷地にたてられたこの美術館はさらなる発展をみせていて、農業体験や郷土食づくりができる体験交流館や、『窓ぎわのトットちゃん』の広場が誕生し、そこに銀河鉄道から客車が運びこまれ、そのなかに子供たちがすわる椅子と机がならべて教室がつくられていました。広い五つの展示室も、絵本の図書館も、ミュージアムショップも、カフェも活気にあふれ、若いスタッフが溌溂としてそれぞれの仕事をしていた。

設立されてからすでに二十年になるが、風雪に古びるどころか活力と生気にあふれているのは、この美術館が創造するという精神によって運営され、常にその活動が創造的に展開されているからなのでしょう。いま私があなたに挑戦するのはこの創造する精神です。創造的運営、創造的活動です。そういえばいつも私は母上に、絵本作家を生み出していただきたい、たった一人でいい、たった一人でもいいからこの「森のおうち」から本物の絵本作家が誕生したら、「森のおうち」は永遠の生命を与えられるはずだと挑発していましたが、新時代を担うあなたへの挑戦はこの挑発がさらに過激になって、毎年六十人の絵本作家を「森のおうち」から誕生させてもらいたいとなるのです。

この日本には、絵本を作りたい、絵本作家になりたいと願望している人がどのくらいいるのでしょうか。その数は千人とか二千人ではなく、おそらく数万人もの人々がその願望の胸の底に抱いて生きているはずです。もし「森のおうち」が絵本作家としてこの地上に誕生させる魅力的なプランとカリキュラムを組み立て、一級の講師陣を配して「絵本の学校」を開校したら、定員六十人の教室はまたたくまに埋まるはずです。
この「絵本の学校」は、毎年十月から翌年の三月まで、隔週の土曜日に開講して、全十二回の講座と実習で構成される。例えばその講座は、

第一回
絵本とはなにか
第二回
絵本がなぜ子供たちに大切なのか
第三回
子供たちの心をとらえる絵本とは
第四回
大人もまた絵本を求めている
第五回
絵と言葉をどのように溶け合わせるのか
第六回
絵本づくりのワークショップ
第七回
ビアトリクス・ポターの人生
第八回
オールズバークの絵本の魅力
第九回
絵本を読書社会に送り出す
第十回
絵本を編集し販売する人たちの戦い
第十一回
美しい装丁──製本のワークショップ
第十二回
安曇野の森に六十人の新しい絵本作家が誕生した

この十二の講座をそれぞれの分野で最先端の仕事をしている人々、作家、画家、出版人、編集者、絵本の研究者や専門家、世界の絵本展を頻繁に展開している美術館のキューレーター、製本装丁家などに担ってもらうのです。午前中が招聘したこの講師たちのスピーチ、そして午後は絵本製作の実習です。

一冊の絵本を作るには、何百枚何千枚もの絵を描かねばならない。あるいはその絵と溶け合わせる言葉を書いては消し書いては消して編み出していかねばならない。当然その作業の大半は自宅で行われるのですが、「絵本の学校」での実習がその作業をさらに深めるはずです。指導する講師たちのアドバイスをうけ、仲間たちの制作をみて、彼らの創造がより深くなっていく。こうして手づくりの絵本が誕生する。

ここまでの作業と工程をもった絵本づくりの講座は、少しも目新しいことではなく、毎年日本のどこかで開かれている。しかし「森のおうち」が組み立てる「絵本の学校」はそれらの講座とは根源的に違ったものです。

この講座はこの地上に絵本作家として立つための実践の講座なのです。したがって生徒たちは完成させた絵本をプリンターでプリントアウトし、装丁作家や製本職人たちの指導をうけて、少なくとも五冊、あるいは十冊、自信があれば二十冊と、その講座が終了するときまでに制作しておかねばなりません。それはこの講座が終了すると同時に、「安曇野の森に四十人の絵本作家が誕生した」というメッセージのもとに、受講者たちが制作した原画と絵本が展示され、その絵本を販売するという活動が展開されるからです。

四十人の絵本作家たちの新生の生命力と熱いエネルギーあふれるその展覧会に多くの人が訪れるでしょう。そして心を奪われた絵本に出会うと、人々はその絵本を購入する。講座で制作された本がたちまち売れ切れて、増刷しなければならない絵本も現れるでしょう。あるいは一冊も売れなかった絵本もあるでしょう。それもまた絵本作家としてこの地上に立つための魂をつくるハンマーと金床となるはずです。「森のおうち」での展示が終わると、この展覧会を東京、大阪、広島、名古屋、博多、札幌へと巡回してさせていく。
この講座の授業料は十二万円です。募集する受講者は四十人ですから四百八十万円の事業になる。さらに二か月間の受講生たちの絵本展が展開されるから総額一千万円をこえる事業になるでしょう。この学校を毎年開催していき、次第に蓄積されていくエネルギーによって、隣接地に絵本作家たちの聖地となる「絵本の学校」と名付ける建物を建造していくかもしれない。そこまでの展望をもった「絵本の学校」づくりです。

この講座づくりのモデルがあるのです。糸井重里氏が主宰する「ぼぼ日刊新聞」というネット上につくられたサイトがあります。そのサイトを拠点にしてさまざまな活動が展開され、株式市場に上場されるほど企業的に大成しています。その会社が新たに「ほぼ日の学校」という事業を組み立て、その最初の講座にシェイクスピアを取り上げてスタートさせたのです。講師に作家、大学教授、演出家、翻訳家などを招いての十五回の講座で、その授業料が十二万円と高額ながら定員百人はまたたく間に埋まった。その学校の校長である河野通和氏は、その講座の開校のときにこんなスピーチをしています。

──「ほぼ日の学校」は、ここにいる皆さんとこれから一緒につくっていく学校です。受講する皆さん、講師をつとめる先生方、運営にたずさわる私たち、映像化のスタッフ、それをオンラインで聴講するであろう、ここにはいない未来の受講生たち。これから一緒に、みんなでつくる学校です。ほぼ日の学校が、新しい学びを体験する、おもしろい坩堝のような場になることを願っています。

 やがて「森のおうち」は、安曇野の森にこのような大望を抱いた「絵本の学校」を設立するにちがいと熱く迫るのです。あなたの時代をつくるために、この「ほぼ日刊新聞」というまったく新しい理念とシステムによって展開されている事業活動そのものを研究してみて下さい。「ほぼ日刊新聞」は若い人々にフィットする多様な手帳というグッズを制作して、ネットを使って販売促進させていってその経営を確立したのです。

そしてもう一つ取り組むべきはクラウド・ファンディングです。アメリカで発生し波及していったこのムーブメントは、時代を切り開く最先端のシステムです。インターネット上でその事業活動やプランを発信して、共感の輪を広め、応援してくれる仲間を募り、そして資金を調達しその活動を展開していく。安曇野の森の奥に「絵本の学校」が誕生したことをこのクラウド・ファンディングで発信すると、そのメッセージは日本中に伝播していって、日本各地から受講生たちがやってくるでしょう。

おうち3

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いせひでこさんへの手紙

「森のおうち」で再生した小宮山量平さんは、人生のなかでその人生を変えるような大きな出会いを、《出会い》ではなく《巡り逢う》という言葉で表現していましたが、その言葉を使えば、「森のおうち」の館長は巡り逢わなければならなかったあなたと、とうとう巡り逢ったということなのでしょう。それはおそらくあなたにとっても酒井さんとの出会いは巡り逢いだったのであり、だからこそ「森のおうち」をあなたの創造活動の一つの拠点としているのではないでしようか。

安曇野の森にもう一つの絵本美術館が立っていたのです。十年ぶりにこの地を訪れて、その美術館に車をつけると、そこは靴屋になっていた。私の衝撃は深く、その波動が安曇野の森にあるもう一つの絵本美術館への手紙となり、さらにあなたへの手紙となった。それも二つの挑戦を刻み込んで。これは他者がかかわることではないのかもしれません。しかし「安曇野絵本館」を襲った悲劇は、また「森のおうち」にも刻々と迫っている危機であり、この危機を根源的に創造的に立ち向かう以外にないと、「絵本の学校」づくりという挑戦の手紙になっていくのですが。もしこの挑戦が酒井さんや次の時代を担う原田朋子さんの心に届き、この壮大なプランに立ち向かうことを決意されたとき、中心のスタッフとなって支えていただきたいという挑戦なのです。あなたの積極的なサポートが「絵本の学校」づくりの強固な地盤をつくりだしていく違いありません。

十年ぶりに再会した酒井さんは、あなたとの交流を俎上にのせ、その交流が深い支えになっていると話された。そんなことで酒井さんから出された宿題をバックに詰め込んで帰京してネットサーフインしていると、あなたがご夫君とともに飯舘村の子供たちに絵画の授業をしている動画があらわれてきた。あなたが芸術家としての厳しい道に踏み出したことを伝えている動画でした。あなたの授業を受けた子供たちは飯舘村の子供たちです。しかしその学校は、飯舘村から十数キロ離れた川俣町に作られた仮設小学校の教室です。その仮設小学校が建てられたのは、飯舘村の除染が完了し、避難指示が解除されたら、その学校に通っている子供たちもまた飯舘村に帰還させるという目的で建てられたのです。

しかし果たしてその子供たちは飯舘村に帰還するのでしょうか。飯舘村の人々は子供たちを帰すべきではないと言っている。子供たちを死の灰が降り積もっている飯舘村で育ててはならぬと言っている。あなたはこの悲劇の村に、この悲劇を背負った子供たちのなかに踏み込まれた。それはたんなる感傷から生じるボランティア活動といったものではなく、芸術家として立ち向かわねばならぬことに、あなたの存在をかけて挑んだ戦いなのだと思います。そこで私の第二の挑戦となる。あなたはさらに飯舘村に三歩、四歩と踏み込んで、飯舘村にあなたの美術館を建てるべきではないのかと。あなたのご夫君ととも。あなたのご夫君もまた日本の悲劇を背負って立っている人です。

飯舘村は原子力発電所から四、五十キロも離れた地点に広がっている村です。不運なことに、原発が爆発炎上したとき、風が飯舘村方面に向かって吹いていた。大量の放射性物質が飯舘村に降り注いでいることが判明して、原発爆発から一か月後に全村民避難の勧告が出される。七千の村民は二年後には帰還できると村外に避難していった。いや、避難などといった定型の表現ではなく、ある事態が発生して人々が四方八方に逃げまどう様を蜘蛛の子を散らすようにという表現がありますが、人々はまさに蜘蛛の子を散らすようにちりぢりばらばらにされてしまったのです。二年どころではなかった。三年たち、四年たち、五年たち、そしてやっと六年目に、一部を除いて避難指示が解除され、住民は村に帰ることができるようになった。

ちりぢりばらばらにされ流浪の民となってしまった飯舘村の人々に、国と県と村は住民たちの帰還を猛烈に迫っています。飯舘村一帯の除染が終わった。飯舘村は安全になった。もう村に帰って昔通りの生活をしてくれと。なるほど放射能線量は激減しています。しかしそれは除染作業が行われたからではありません。除染作業の効果など限りなくゼロに近く、除染作業の手が入ろうが入るまいが放射能線量が激減していくのは、放射性物質の成分が自然減衰していくからなのです。しかしそれは減衰であって消滅したわけではなく、ストロンチウムやセシウムやプルトニウムは、依然として高濃度のままその地に大量にとどまっています。ストロンチウムやセシウムが消滅するのは数百年、プルトニウムウムにいたっては数万年だといわれている。

飯舘村はその大部分が山に囲まれています。その広大な山林はいまなお危険地帯で人は立ち入ることができない。風が、雨が、その山林から濃高度の放射性物質を、家屋に、田畑に、道路に、役場に、学校に、郵便局に、工場、ビニールハウスに運んでくる。さらに残酷なことに、飯舘村の随所に、除染作業で削りとった土砂を詰め込んだフレコンパックという黒い塩化ビニールの袋が山をなしています。あらゆる生命を死滅させる死の灰を村の中に抱え込んだままなのです。

解除されてからまもなく一年になりますが、今日まで村に帰還してきた村民は五百人足らず、しかもその大半が高齢者で、若い世代の帰還者は絶無です。したがって一人の子供も帰還していない。今年の四月から学校も再開します。六十億円もの巨額をかけて建設された新しい学校にいったい何人の子供たちが通うようになるのでしょうか。この施策を遂行させる村当局はもちろん正確に推測させています。飯舘村に在住する子供が通ってくるのはゼロだろうと。それは当然のことで、飯舘村に住む子供は一人もいないのですから。しかし飯舘村から一時間以内の場所に住んでいる子供たちを送迎するスクールバスを毎日何台か走らせれば、五、六十人の子供たちはその新しい学校の生徒になるだろうと。かつて飯舘村には三つの小学校と中学校が一校、そこに六百人をこえる子供たちが通っていました。あの原発の大爆発、そして七年にも及ぶ避難生活によって、飯舘村の学校に通う子供たちは五、六十人になってしまった。しかしここから新しい飯舘村がはじまる。かつて飯舘村は日本一美しい村だといわれていた、今度は世界一美しい村になるための戦いがはじまる。その地にあなたの美術館が建設されていく。

日本にはいま腐るばかりの美術館があります。その大半が所蔵している作品を展示するだけの美術館です。その作品が時代ととも成長していく生命力をもっていれば、その美術館は常に生気にみなぎり多くの人を何度も引き寄せる。しかしその作品が、その時代にちやほやされただけの、その時代に流行しただけの、その時代に金を稼ぎ出しただけの、生命力をもっていない作品は、その時代が去れば賞味期限切れの食品同様の存在になる。もはや人々はそんな美術館に見向きもしません。美術館は閑古鳥が鳴いているばかり。いま日本にはこのような美術館や文学館や記念館があふれるばかりに立っています。

もちろんそれらの美術館とは一線を画した、時代に廃れることなく、むしろ歴史ともに成長し新しい地平を開いていく美術館だってあります。例えば、沈滞していた松川村を蘇生させた「安曇野ちひろ美術館」です。一介の挿絵画家であった岩崎ちひろの絵を、松川村とタイアップしてかくも雄大な規模の美術館にして展覧させたのは、彼女の息子がずば抜けた想像力と創造力をもった起業家であり企業家だったからでしょう。岩崎ちひろの最大の作品はこの息子を誕生させたことではないかと思うばかりです。

私たちの世代が広大な大地を汚してしまった。いったいこの汚された大地を蘇生するのはだれなのか。だれが担わなければならないのか。それはすべての日本人に問われていることです。そしていまこそ芸術の力が問われているはずなのです。この汚された大地にいま必要なのは芸術なのです。芸術は人々に新しいエネルギーを注ぎこみます。絶望の底に沈みこんだ人々に新しい力と勇気を注ぎ込みます。立ち上がれと、再び立ち上がって、立ち向かっていけと。

イギリス人が国歌以上に愛している「エルサレム」という歌があります。ウイリアム・ブレイクの「ミルトン」から採った詩に、チュールズ・バーリーが作曲した歌で、悪魔に汚されていく美しい大地に我らは挫けずに我らの理想の国──エルサレムを打ち立てようと人々を鼓舞する歌です。イギリスの民謡「Auld Lang Syne」を日本人は見事に「蛍の光」として日本に歌にしてしまった。もしかしたら、やがて飯舘村はこの歌を村歌とするかもしれません。

JERUSALEM

And did those feet in ancient time,
Walk upon England’s mountains green?
And was the holy Lamb of God,
On England’s pleasant postures seen!
And did the countenance divine
Shine forth upon our clouded hills?
And was Jerusalem builded here,
Among these dark satanic mills?

Bring me my bow of burning gold,
Bring me my arrows of desire,
Bring me my spear O clouds unfold,
Bring me my Chariot of fire,
I will not cease from mental fight,
Nor shall my sword sleep in my hand,
Till we have built Jerusalem,
In England’s green and pleasant land.

我らの国を

その昔、その足で
この緑なす飯舘村で人々が生活していたというのか
我らの愛する牛が
この美しき村の草を食んでいたというのか
その人たちがふたたび雲をかきわけて
この汚された村にやってきたというのか
その人たちが悪魔に支配された村に
新しい国をつくるためにやってきたというのか。

ぼくはさびいたシャベルを手にする
わたしはさびついた鍬を手にする
ぼくは捨てられていた軽トラックに乗り込む
わたしは捨てられていた耕運機を作動する
私たちはどんな苦難にあっても挫けない
悪魔にけがされた飯舘村に
ふたたび美しい国をつくるまでは

あなたの美術館を訪れると、あなたがチェロで奏でる「エルサレム」が聞こえてくる。そのその底深い響きが私たちのなかに力と勇気とを流しでこんでくる。


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