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ゴンタの交通事故  菅原千恵子

あいこの13

 愛しき日々はかく過ぎにき  菅原千恵子

 春休みは、ゆっくりやってきた。二人の姉たちは、一番のんびりできるからといって、父の実家へ遊びに行ったが、私は、まだ小さいからという理由で、家で留守番をすることになった。気持ちだけは、二人の姉たちと同じつもりでいるのに、時折何かのときに、小さいという理由で私だけ、姉たちと行動を共にすることができないのは、とても嫌なものである。

 I町にいたときも、そんなことがあった。朝、目を覚ましたら、父に連れられて、二人の姉たちがS市に行ったと聞いたときは、どんなに悔しかったか言い表せないほどである。さんざん泣いていつまでも泣きやまず母を困らせ、とうとう最後にはしつこいと言われ、強くしかられたものだ。しばらくしてから、そのとき父が撮ったデパートの食堂でみつまめを食べている姉たちの写真を見て、その悔しさが少しも衰えることなく再燃し、私はまた泣いた。泣いている私を見ても、誰も、なぜ私が泣き出したのかわからず、まるで無関心に、変な子だといったふうにして理由も聞いてくれないものだから、私は我慢できずに泣きながら訴えた。

「みんなで私をだました。私だけ一人置いていったのに、みんなで、みつまめなんか食べている。私も行きたかったのに」
 これを聞いて、今度は母が、あの時の困り果てたしつこさを思い出して、声を高めた。「あら、まだこいなごといってんだよわ。何だってもかんだってもしつこいんだから。写真を見てまだ言うんだもの、しつこいなんてもんでなくて、執念深いんだべかね」

 この事件以来、私はしつこい子どもというレッテルを張られ、そのことに異議を唱える人は、我が家にはいなかった。だからもうそれ以来、余りに見苦しく姉たちの後を追いかけるようなことはしなくなっていたが、おもしろくないことだけは確かだった。

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 二人の姉たちは四、五日という予定で出かけ、私だけが父と母と家で留守番だった。私は姉たちの帰りを心待ちにしていた。そして、明日帰る予定という日の早朝のことだった。
「おばちゃん、ゴンタが車に轢かれて死んでいたよ」
 むつ子が、私の家にやってきて母に伝えている。布団の中で私も父もその声を、確かに聞いた。少し早く起きて台所にいた母が、私たちの寝室にやってきて、再び同じことを伝えたが、伝えると同じに、もういなくなっていた。私は、震えながら父の布団に滑り込み、信じられない思いと、激しい動悸で胸が苦しくなっていた。
「ねえ、絶対死んだりしないよね、ねえ、大丈夫だよね。」

 少しでも不安を打ち稍そうと父の答えを待っていたが、父は、何も応えない。私は、胸のところで手を組み合わせ、祈り続けていた。しばらくして、母が泣きながらゴンタを抱いて戻ってきた。
「だめだでば、息をしてないもの。まだ温かいんだよ。死んで間もないんだべね」

 ゴンタは古いタオルの上に寝かされた。見ると口の横から長い舌をだらりとたらし、目は虚ろに半分開いた状態で、その姿に幾度呼びかけても、私のほうを見て起き上がることはなかった。父が、お腹や目のまぶたを手で開けて調べていたが、
「だめだ。手遅れだ。ずいぶん短い一生だったな、ゴンタ」
 といって何度も優しくその体を撫でた。

 私にはとてもすぐには信じられない。昨日の夜だって、夕ご飯を持っていったとき、あんなに喜んで、私に飛びついていたのに。まだ春浅く薄寒い外で、私はゴンタが食べ終わるのをずっと見ていた。ちらちらと私の方に視線を流しながら、食べるまで、待っててねというそぶりで、急いで食べていた。食べ終わったら私に遊んでもらおうと思っているのだ。
 
 父の胸に抱かれて初めて我が家にやってきたときのことや、遊園地に連れていって、一緒に電車に乗ったときのことが全部ひっくるめて一瞬のうちに思い出された。このゴンタは絶対死んではいけない犬なのだと感じた瞬間、私は撫でていた父の手を強く払いのけていった。それは叫び声のようなものだったかも知れない。。
 「お父さん、なんとかして、なんとか助けてやって。注射をしてよ。薬をやってよ。やぶだあ、お父さんのやぶ医者あ」

 後は、もうことばにもならない状態で、塊のようなものが喉いっぱいにつまり、ごろごろと転げ回るように体を投げ出して泣いた。泣けば、一度死んだゴンタが生き返ってくるような気もしたが、おとぎ話でもないのだからそんなことはありえないことだという現実を知らされるだけだった。

 このときばかりは父も母も、いつまで泣いていてもうるさいとか、しつこいとはいわなかったが、私が泣いている間に、父は机でゴンタに送る弔辞を書いていた。書き終わると、朝ご飯とも、昼ご飯ともつかぬ食事を三人ですませ、再び虚ろな時間を持て余した。むっ子や、ゆっ子が私を遊びの誘いに来てくれたが、どんな慰めも、遊びも、私の心に沿わないものに思われ、ただ一人になりたいとだけ思った。

 空き巣泥棒が入ったとき、私は、ゴンタの真実をみなに伝えていなかった。そのために、ゴンタは、間抜けな犬とからかわれていたのを私は自分の身を守るために、堂々と、違うといってやれないようなひどい子供なのだ。どれだけ心でごめんねと言ってみたところで、ゴンタには何も通じていなかったに違いない。ましてや死んでしまった今となっては。

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 心に穴が開き、その穴の中を木枯らしが吹いているように、寒々と寂しく、そして苦しかった。いつのまにか夕暮れになっていた。父が、このままにしておくことはできないから、ゴンタを土に返そうといって、庭の西側を掘り始めた。
「お父さん、深く掘ってけさいんね。ほかの犬が来て、匂いがあるからって掘り返されたらいやだから」
 母が、父の掘るのを見ながらいった。

「お父さん、こんな土の中じゃ、冷たいんじゃない?ゴンタがかわいそう」
 背中から寒さが這い上がってくるような夕暮れだった。私のことばに父はいった。
「もう、何も感じないんだよ。死ぬということはそういうことなのさ」
「そんなことはない。ゴンタは天国にいって、いつも好きなことがいっぱいできて、おいしいものを食べて、幸せになるんだよ。ね、お父さん、そうでしょう? ゴンタは正直な、すばらしい犬だったもの」

 ゴンタが、いかに勇敢な番犬だったかをいいたいのに、やはりいいだせなくて私は、こんなふうにしか表現できなかったのだ。父は、黙々と土を掘り続け、直径五十センチの穴を掘り終えた。いよいよゴンタの体をその穴の中に抱いていれると、
「これでお別れだな。」
 といって、スコップで上から土をかけはじめた。土の重さの分だけ、私の心にも重いものがのしかかってくるように感じられて、とても最後まで見ていられず泣きながらいえに駆け込んでこたつにもぐりこんだ。

 やがて父に呼ばれていってみるとゴンタはすっかり埋められ、その場所は小さな盛り土になっていた。父がどこから見つけてきたのか手頃な石が盛り土の上に載せてあり、いかにも墓らしいものとなっていた。私は夕飯の用意をしていた母を呼びに行き、三人でその墓に手を合わせた。

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 翌日の夕方、姉たちが帰ってきたので、私は玄関先でゴンタの死を知らせた。二人は体が硬直したようになって驚き、その場にたったまま荷物を足下に置いて泣き出した。私は昨日さんざん泣いたので、あまり涙はでなかったけれど事の顛末詳しく語って聞かせているうちに、ちょっと涙が出た。私は姉たちを少し恨んでいた。みんなであの時の悲しみを分かち合えなかったのは、二人だけで行ってしまったからだとこじつけていた。

 だから、姉たちをうんと悲しい気持ちにさせ、出かけて行ったことを後悔すればいいのだと意地悪な気持ちも交じっていた。私はゴンタがどれほど悲惨な姿で母と戻ってきたかを、大げさに話して聞かせた。
 「舌をさ、こんなふうにだらんと垂らして、口の横からは血が出てたんだよ。お父さんが、こんなふうじゃ内蔵はきっとぐちゃぐちゃでひどい事になっているだろうって」

 私は、舌の長さを三十センチもあるように手で示して姉たちを震え上がらせた。そして、ゴンタの墓をつくったから二人とも手を合わせるようにと墓へ案内した。姉たちは一歩も家の中にはいらないまま、しゃくりあげつつ、私の後にしたがった。墓の前でしゃがむと、墓石を撫でながら、ゴンタ、ごめんといってまた泣いた。それは、悪い気はしないものだった。

 その夜、父がゴンタのために書いた弔辞を、みんなの前で読みはじめた。母が、
「お父さん、止めでけさいんてぱ。あんまり悲しいから」
 といったまま、割烹まえかけで涙を拭いたのをきっかけに全員号泣することとなった。もちろん、父も泣きながらも読むことをやめない。こんなふうに、犬のことで父が泣くのを見たのは初めてだった。

 ゴンタが死んでしまった寂しさは、苦しいとしか表現できないものだった。何かで埋めなければ心に大きな穴が開いたようで淡々と続く日常生活が耐えられないのである。私は、おずおずと新しい小犬をまた飼いたいといってみた。ところが、それは余りにもゴンタに対して非情だと、父を除いた三人が口を揃えていったのだ。移り気だとも言われた。

 だからそれ以上強引にいいだすことはしなかったけれど、その時の気持ちというものを説明するなら、ゴンタを失ってあいた穴は、ゴンタによってしか埋められないのだということである。ゴンタさえいれば、ゴンタでなければという気持ちはつのるのに、もうゴンタはどこにもいないのだ。とすればゴンタのような犬の存在をすぐ側に置かなければ、たとえそれがゴンタの代用品であってもいいから、今すぐに置かなければ決して満たされることがない渇きのようなものが、胸一杯に広がって苦しくてならない。喪失ということはこういうことなのである。

「死なれると辛いから、もう二度と犬は飼いたくないよわ。」
 と母がいったとき、それは違うと父はきっぱりいった。
「人間は、愛するものを失うのが辛いからといって、愛する気持ちまで無くしてしまうことはできないのさ。だから、一度こうした気持ちの幸せを知ってしまったものは、何度でも犬を飼うしかないんだよ」
 私はこのことばの意味ほど深く心にたたき込んだことばを知らない。その時の私の気持ちはすべて、父のこのことばによって代弁されていたからだ。しかし空虚な中にも春休みは間もなく終わり、私は犬のいない生活に少しずつ慣れ、やがて四年生に進級した。

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