碌山の源流をたずねて 5 一志開平
帰路イタリアで見たもの
パリで学んだ碌山は帰国前にぜひイタリア、ギリシャ、エジプトの三大美術を現地で自分の眼で、風土に立脚した鑑賞をしたかったのである。それも碌山がかってオランダのロッテダムのレンブラントの作品に触れた時の感激が忘れられない経験が浮上したのである。最初の見学地トリーノではエジプト美術館のラムセス三世像が印象的で感嘆を深めている。次いでミラーノヘ向かいアルプスの山の白雪皚々のすばらしさを車窓に見ることができた。ミラーノではドゥオーモ寺院を見て、サンタマリア寺院のグラーツェ修道院にまわった。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が主目的であったので、この絵の前に釘づけになり全く心を奪われてしまうのである。
つぎのバドヴァでは画家ジョットの作品を多く収めるマドンナ・デルレ・アレーナ寺院を訪れて、三十六面の壁画から「マリヤ伝」「キリスト伝」「最後の審判」などの物語の絵などに我を忘れ、ひとつひとつがジョットの信仰心から生まれたものであり、出発点が忠実な自然研究からであり、その絵の美しさがジョットの品性を高めて、碌山が日ごろ思っていた「芸術は人なり」につながるのである。
さらに足を進めてイル・サント寺院ではドナテルロの作品に触れ、特にガッタメラータ将軍騎馬像は近世特有の狭さとは比較にならない雄大さがあって安心感を深めた思いであった。帰りには急ぎばやにダンテの家を見ているのである。つぎのヴェネツィアには三日間滞在してまさに漁るような思いで寺院や美術館を見学するのであるが、ミラーノやバトヴァのように心に残るものがなく残念であった。
芸術の町フィレンツェ
クリスマスの前日静かでゆっくりした町フィレンツェに到着するのであるが、碌山は手記の中で「単にウフィッチの画室やプティ・パレースなどの美術館があるばかりでなく、もしイタリア全体を世界の公園とすればフィレンツェ全体が一大美術館だということができよう」と述べているように町のいたるところに彫刻が立ち並び、碌山はこんなすばらしい町なら永住してもいいとさえこの美しい町が気に入ったようである。
クリスマス当日はサンタ・クロッチェ寺院ヘジョットの円熟期の壁画を見てまわり、翌日はベル・アーチ美術館でミケランジェロの「ダビッド」、ジョットの「マドンナ」、ボッチチェリの「春」その他有名な作品を見ることができて、引き続き期待していたウフィチ美術館では十三世紀から十八世紀イタリア派の美術家の作品の数々に触れ、なかでもボッチチェリの「ヴィーナスの誕生」こそは他の作品とは比較にはならない傑作であり、空前絶後の奇才であると讃えている。
なおこの美術館でドイツの画家デューラーの「三賢王の礼拝」を見出しているが、碌山はその時の印象を「ドイツ人デューラーの絵が、かえってイタリア諸家のものを凌いでいるようである。デューラーは実に深刻な内容な画家で、その絵の生命も永遠に生きている」と伝えている。なおこの町のサン・ロレンゾ寺院内にメジチ家の墓があり、ここにミケランジェロの夜、昼、晩という四つの彫刻があって、碌山はそこで墓参りをした後、感動のあまり「夜」をスケッチしている。なおバルジェルロ美術館ではドナテルロの「聖ジョルジオ像」の力強い作品に心打たれているが、それはミケランジェロより原始的な作品であったかもしれない。
そしてミケランジェロの「ブルータスの胸像」をも見ることができた。このほかサン・マルコ寺院ではアンジェリコのキリストの生涯を描いた壁画等々をみている。遂に二週間にわたるフィレンツェでの美術鑑賞が終ってローマに向かうのであるが、更に途中アレッツオでも聖フランチェスコ寺院内でのフランチェスカ最大の傑作「聖十字架物語」をも見て回ることができたのである。
美しい町アッシジ
次の目的地アッシジでは聖フランチェスコ寺院ヘニ日間にわたってたずね、ここでの「聖フランチェスコ伝」の二十八図の大半がジョットの作で、なかでも「小鳥の説教」の図は権威のある有名なものであった。ここで「十字架上のキリスト」「エジプト落ちのマリヤ」「エザベスの会見」などのすばらしい作品を堪能するのである。
美しい町アッシジからいよいよイタリア旅行最大の目的地ローマヘ入るのであるが、ローマでの美術の旅はあらかじめ二週間滞在を予定して、何といってもミケランジェロを中心に見学しようと思いをたかぶらせている。先ずカアピタル美術館をたずね、ここではエジプト獅子の見える階段をのぼり、古代美術の騎馬像の数々に触れ、途中大使館にも寄り日本からの回送郵便をも受け取っている。
次の日から聖ピーター寺院においてジョットの数枚の密画のずばらしさに心を打たれ、今までの壁画とは比較にならないほどのものであることを確かめるのである。ローマでは藤島武二をたずねてパラティノの丘にあるローマ遺跡を見学し、全盛をきわめたローマ帝国の昔と廃墟の今とを眺めるのであった。つぎには碌山が待ちに待ったヴァチカンの美術館、そしてシステン礼拝堂のミケランジェロの作品に向かいあえるという歓喜がわいてくるのであった。天井は三十代の頃描いたもので、その雄大さに驚き、なかでも「アダムとイブの創造」のおもしろさ、そして「最後の審判」はミケランジェロ晩年の苦心の結晶だけに、その力と生命と活動は他に類のないものであることを痛感するのであった。
ローマ滞在の二週間の主だった美術館を丹念に足を運び、給画や彫刻を見て回っているが、彫刻に比して絵画はおもしろくないという感想で、碌山の心にくい入るような作品はあまりなく残念であったが、イタリア各地の美術作品から作家や時代の特徴、そしてまた地方の特色などについても理解を深めることができて大変よかったと述懐している。
約一か月にわたるイタリア美術の旅を終えた碌山はナポリから地中海を船でギリシャに渡るのである。
ギリシャの芸術
冬の日ざしの中に見るギリシャは明るく静かであった。一月二十五日アテネへ到着。その昔全盛をきわめたアテネも今はさびれはててアクロポリスの丘は静まりかえっていた。パルテノン宮殿の跡に立って昔をしのび、ギリシャ文化に思いをめぐらしたのである。碌山ははじめはギリシャの美術に関心を持ち、西洋美術の源流のように思いあこがれていたが、ロダンの作品やイタリア美術に触れてからは、たしかに優美さはあり、技術もすぐれているものの、作品の内部から発する生命力の不足や乏しさをものたりなく思うようになっていた。それに比してエジプト彫刻は素朴さはあるものの、内部にひそむ生命力や迫力に強くひかれるものがあった。アテネではギリシャ初期の美術と、エジプトの美術をギリシャ人がどのようにうけとめていたかを究めたかったのである。
碌山はアクロポリス美術館、そして国立考古館で「ペプロスを着た少女像」や「アポロン型の男子像」その他多くの作品を見ているが、おしなべて形式的であり、よく整っているものの極めて力の弱いものに見えたのである。そして典型的なギリシャ初期の様式も、つまりはエジプト彫刻の様式の模倣にすぎないのではないかとさえ思われて物足りなさを感じるのであった。
碌山がギリシャ彫刻でもっとも注目したのは、フェイディアス、ポリュクレイスなどの紀元前五、六世紀のものであった。しかしその頃の碌山にとってはロダンに啓発されていて近代彫刻をめざしていたことや、人問の内部生命に強くひかれたこともあって、ギリシャ彫刻はどこか形式的な外形の美を追い、なにか人の心に食い入る力や生命力を欠いているという結論に達したのである。
碌山は一週間滞在のアテネをあとにして最も見たかったエジプトへと船出するのである。
原始的なエジプト彫刻
碌山が一番待ちこがれていたエジプト。その夢をいま実現すべくアレクサンドリヤ港に到着して、エジプト上陸の第一歩を踏みしめるのである。
カイロのエジプト博物館を経てエジプト美術館に入ると、建物は大きく、館内には二メートルもある石彫から、二三センチもの小さな木彫、象牙、金銀細工まて何千何万という美術品が並んでいた。ここでは世界最古の本彫といわている「村長像」を見ることができた。それはエジプト第四王期ごろの作で下半身は力が足りないように思えたが、上半身は非常におもしろいことから、碌山は手帳にくりかえしスケッチをしている。このほか古代エジプトの作品に心をうごかされているが、とりわけ動物の「猫」や「鷹」などにいたっては、将に飛び躍り、舞い狂う勢いであることに、碌山は驚きをもって讃えている。
僅かの日時でエジプト彫刻を見尽くせるものではないが、見られるだけのものは見ることにして、ナイル河畔のブラク公園の熱帯樹、そしてその下の色とりどりの草花が咲き乱れる楽園を通り抜けながら、ふと今ごろ日本では一番寒い時期で、特に信州では野も山も白雪に覆われているのに、ここエンジプトではこんなに違いがあるのかと、南国との温暖の差をしみじみ肌で感じつつ改めて故郷の自然に思いを馳せるのであった。
その間、碌山はエジプト彫刻の精神とは一体何だろうかと思いをめぐらしているが、それは自然研究から発生したものにちがいなく、古代エジプト人は木や石に生命を写して、それを永久に伝えようとしたのではないかと思い、ロダンの教え即ち「美は生きている」はここにあるのだと犇々思うのであった。そしてまた眼にした作品が日本の古代美術に非常によく似ていることから、日本の上代彫刻はギリシャを通らないで直接エジプトからペルシャ(イラン)ヘ渡り、それが中国大陸を経て日本に来たのではないかと思うのであった。
翌二月五日はピラミッドを見学することになって、カイロから車で約一時間ほどの広い地平線にギゼーの三角形のピラミッドが大小三並んでいた。この壮大なビラミッド、そして人面獣身のスフィンクスをながめながら当時は飛ぶ鳥も落とす勢いであった王様の権勢も、いまは荒れ果てた砂漠の中に横たわっているという、時の変遷とその経過から改めてエジプト彫刻の力強さとギリシャ彫刻のあきたらなさを思うのであった。
午後カイロにひきかえして売店で古代美術品の払いさげ品を見てまわっているが、ここでは形は小さいけれども逸品ぞろいで、値段も高く貧困続きの碌山にとっては入手することなどできないのであったが、そのなかの一点だけ、それも中世期の作らしい小さな女の木彫を見つけて購入するのであった。この木彫は碌山美術館に展示されている。これが日本への唯一の土産となり、その日の夜ポートサイドへひきかえしてエジプト最後の夜を過ごすのである。
憧れと期待をこめたエジプト旅行もまたたく間に終ってしまったが、碌山の胸中には長い間思い続けたエジプト彫刻への考えが一層確かめられて満足感がえられて「芸術とは何か」「彫刻の生命とは何か」の考えのもとに今後はその実践としての制作を通して実現しようと高められるのであった。次の日の二月六日、いよいよ乗船。ところがこの船は荷物の積み込みなどに手まどり、七日昼ごろ錨があがるのである。
碌山の胸の中には学んだエジプト彫刻とともに、日本の古代彫刻への思いがいよいよつのり、帰国後はすぐに日本の古美術をこの眼でよく確かめることと、更に新しい日本の近代彫刻の創造に意欲が湧いてくるのであった。
碌山美術館の館長であった一志開平さんは、碌山に新しい生命を吹き込もうと立ち向かってくれた。しかし連載七回目を書き上げた後に逝去されてくやしいかぎりだった。未完で終わったが、一行一行が厳しく磨かれた文体で彫り込まれていった碌山像は、碌山に新しい生命を吹き込んでいる。草の葉ライブラリーで刊行される。
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