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自転車泥棒の思い出

第15章  玖珠高原の四季   帆足孝治

小岩扇の野焼きと山火事

 三島公園から正面の東の方をみると、森町の象徴である頂上がテーブル状になった岩山「大岩扇」の雄大な山容が視界を遮るように横たわっている。その向こうに小岩扇、さらにその向こうには宝山が、それぞれ競うように南に向かって険しい岩肌を覗かせている。
 
 これらの山はいずれも麓からはせいぜい三〇〇メートル程度の高さしかないから、その気になれば二、三時間もあれば楽に登って来れるが、いざ登り始めると、最初は緩やかに見えた山の斜面はあと少しで頂上というところで険しい岩肌にぶつかってしまう。特に空から見ると、南に向けて大きな扇を広げたような格好の大岩扇(六九一メートル)は、山頂の南西部が垂直な崖になっており、なかでも南側の崖は高さ六〇メートルにもおよぶ。
 
 日露戦争中には、旅順総攻撃に備えて陸軍が岩登りの演習を行ったというほどで、昔は崖の中程に岩が真っ白く輝いているところがあったという。上の市部落ではそれを「鷹の巣」とよんでいたそうだが、鷹が巣をつくって、長い間その鷹の糞が積もって白い岩に見えていたのだそうだ。これも陸軍が演習中に大砲で撃ち落としてしまったそうで、私が子供の頃にはもうその巣はみえなかったが、今なお「鷹巣の製材所」、「鷹巣学園」、「鷹巣幼稚園」など、「鷹巣」の名があちこちにあるのはその名残りらしい。
 
 さて、その大岩扇の岩壁だが、道を間違えてこの岩壁の下に出ると、大きく迂回しなければ登り口がみつからない。江戸時代には森の殿様が参勤交代のために通ったといわれる八丁の石畳山道がこの大岩扇の南斜面を横切るようにあって、この道を辿ると大岩扇と小岩扇の間の峠に出る。ここから日出生高原に出て、今宿、塚原を経て別府湾の日出海岸に至る九里(36キロ)の道が往時の参勤交代の通い道だったのである。
 
 この崖から下はぎっしりと杉が植えられているが、崖の上の山頂に登ってみると、そこは隣の小岩扇、宝山を経てはるか北東の方まで続く広大な草原になっており、毎年、農閑期になると近隣の村の牛が放牧される。気持ち良さそうな草原も、実際にそこへ近寄ってみると、辺りは身の丈ほどもある茅がやたらと生い茂っており、よく見通しも効かないほどである。
 
 雪が溶け、春がやってくるとこの辺の禿山には一斉に火がつけられる。冬を越してきた枯れ草を焼いて、新しい草の発芽を促すとともに家畜の病気を防ぐため害虫を駆除するのが目的だが、野焼きによってできる灰がいい肥やしになって、副次的な効果としてワラビ、ゼンマイ、茸などをたくさん育てる。野焼きのすぐ跡に出る橙色のササナバと呼ばれる小さな茸は、御飯に入れて炊くと何とも言えない春の香りがするので、村の人達にとっては欠かせない春の味覚だった。
 
 野焼きは三月に入るとあちこちで始まる。小岩扇、宝山などの野焼きには部落の人達もその作業に駆り出され、朝は早くから夕方暗くなるまで野山を駆け巡り、森林などを焼かないように暴れる火を見張り、これを上手にコントロールする。風の強い早春には油断すると火はすぐ杉林などに燃え移るから、よほど緊張していないと失敗する。
 
 私が小学校三年生のときだった。ある日曜日のこと、曇った空から黒い燃え滓のようなものがたくさん降ってきたことがある。気がつくと小岩扇の左側斜面から青い煙がもうもうと上がっており、それは風に煽られて上ヘ上へと燃え広がって行くところだった。まだ二月の末で、そろそろ野焼きの季節が近付いてはいたが、小岩扇の山焼きが今日だという話は聞いていない。そうこうするうちに、美しい小岩扇はお昼過ぎには山全体が真っ黒に焼けてしまった。戸狩(とがり)部落にあった消防第二分団の「火の見櫓」から半鐘が鳴り始めたのは、山がすっかり焼けてしまってからで、それで皆んなはやっとそれが山火事であることを知ったのである。
 
 幸い、火は山全体が焼けると下火になり、村から消防隊が駆けつけるのを待たずに、森林を燃やすこともなく夕方までには完全に鎮火した。 翌々日になって、前の日学校を休んだ同級生のひとりが学校にくるなり職員室に呼ばれた。私たちは何事かと成り行きを見守っていた。どうやら一昨日の山火事はその生徒が誤って引き起こしたものだったようで、彼は親からも警察からも、そして学校の先生からもひどく怒られたそうである。
 
 彼の話では、その日は少し雪がちらついていたので、いくら枯れ野でもこんな寒い日には火はつくまいと、焚き火からちょっと目をはなしたら、アッと言う間に燃え広がって手の施しようがなくなったそうである。実際、枯れ草の燃え広がる速さはおそろしいもので、これは経験した人でないとわからない。
 
 私の祖父も一度、自分の山で失敗したことがある。祖父は元気だった頃、森中学の裏手の「西が迫」にクヌギ山を持っていたが、戦後、その一部を開墾して芋や陸稲を植えていた。きっと刈りとった草を燃やそうとでもしていたのであろう、風の吹く中でマッチを擦って枯れ葉に火を放った。ちょうど学校帰りだった私は、うちの山から物凄い煙が上がっているのを見て、山にいる祖父の手伝いでもしようと、わき道にそれて山に入った。
 
 祖父が放った火は強い春風にあおられてみるみる枯れ草に燃え広がり、あれよあれよと言う間にクヌギ林の中にまで燃え移っていった。気が強かったおじいちゃんは、それでも自分で何とかしようとおもったのであろう、誰の助けも呼ばずに、そばにあった竹箒で火を叩いていたが、私が駆けつけた時にはすでに火はクヌギの林に燃え移っていた。ちょうど近くにいたひとたちも、あまり急に濃い煙があがり始めたので不審におもっていたところだったのだろう、私が叫ぶ間もなく大急ぎで駆け付けてきて、付近にいた中学生にも手伝わせて火を叩き始めた。なにしろ大勢だったので火は瞬く間に消し止められた。幸い、焼き込んだクヌギ山も自分のうちの山だったので、大事にも至らずに済んだが、改めて火の恐ろしさを知った次第である。

 
自転車泥棒の思い出

 
 百姓をやりながらよく魚釣りもした私の叔父は、昭和二十四年の春に東飯田中学校に数学の先生として就職した。長男の善ちゃんが生まれて、「いくら田舎でも少しは現金がなくては生活しにくい」と言っていた嫁のマル子おばさんの意向を受けて就職を決心したものらしかったが、その頃の東飯田にはまだ、やっと最近になって電気が通ったというような山間から通ってくる百姓の子供たちが多かったので、勉強よりも家の手伝いを大事にしていた田舎の子供たちの扱いに慣れるまでは随分と苦労したようである。 東飯田中学校は、森から一つ大分寄りの駅である「恵良」(えら)の手前、久大線の線路沿い左側の高台にあり、叔父は最初は自転車で通っていたが、余り遠いのですぐ汽車通勤に切り換えた。
 
 朝七時すぎの汽車で恵良まで行き、そこから歩いて通ったのだが、帰りは七時を過ぎることが多かった。春が過ぎ梅雨が来て、雨が降る日には私は善ちゃんとよく傘をもって森駅まで叔父を迎えに行った。
 
 森駅前の小さな商店街にはその頃、都久屋と大根屋というたった二軒の文房具屋を兼ねた本屋があって、付録が一杯はさまった小学館の雑誌「小学三年生」がおいてあった。私はその本が欲しくて堪らなかったので、叔父を迎えに行った帰りに今日こそこの本を買ってもらおうと、家を出るときは決心して行くのだが、いざとなるとまだ給料を貰い始めたばかりの叔父に百二十円もする本を買ってくれるよう頼むのはなかなかできなかった。
 
 叔父は、大抵は七時ごろの鳥栖行きの汽車で帰ってきたが、それに乗っていないと、次の宝泉寺線の混合列車が着くまで待たなければならない。私たちは待合室の隅にあった売店の品物を眺めたり、改札口の鎖にのってぶらんこをしたり、さらには駅員の目をかすめ、鎖をくぐってプラットフォームへ出たりしながら汽車がくるのを待った。その頃の森駅は九大線でも主要な駅だったから、駅の構内には機関庫もあって、夜になっても全体に明あかと電気が点っていた。
 
 機関庫には8620型、C11、C56、C58などの機関車がいっぱいいて、機関士の養成訓練や貨車の入れ替えなどで絶えず機関車が行き来していたから、叔父が帰ってくるのを待つ間も、機関車を見ているとあまり退屈しなかった。よく観察していると、機関車の動輪は一回転する間に四回のしゅっしゅっというドラフト音が聞こえることに気がついたし、機関車のピストンの往復運動は左右が一致していないことも分かった。
 
 小さなC11タンク機関車が後ろ向きになって引つ張ってくる宝泉寺線の列車は、隅に白い字で小さく「オハ35」と書いた客車二台と、貨車一台の短い編成で線路の向こう側のホームに着いた。いつも白い麻の背広をきていた小柄な叔父の姿は、夜目にもすぐ判別できたが、そのころ同じく森の伏原から通っていた英語の河上先生も、いつも一緒の汽車で帰って来た。河上先生には私と同級の色の白い利発な娘さんがいて小学館の「小学三年生」を毎月購読していたが、彼女はときどきそれを学校にも持ってきたので、その時ばかりは彼女と親しくしてよくそれを見せてもらった。河上先生は駅前の都久屋に頼んでおいて、毎月それが発売になると勤務からの帰りに娘のために買って帰るので、私はそれがどうにも羨ましかった。
 
 河上先生は後に森中学校に転勤してきたので、私が中学に進んで最初に英語を習ったのはこの先生だった。前頭が大きく禿げ上っていたから、生徒たちは「コッペンハゲ」とあだ名をつけていた。英語の教科書にアンデルセンの童話が出てきたとき、河上先生がデンマークの首都コペンハーゲンを、口を尖らせた英語らしい言い方で「コウペンハァゲン」と発音していたのが生徒たちにはおかしかったのであろう、とうとうそれがあだ名になってしまったのである。
 
 終戦間際に満洲でソ連軍の捕虜となり、長い間シベリヤで抑留生活を送った経験がある河上先生は、よく授業中にシベリア鉄道でウラル山脈を越えた時の想い出を語ってくれたが、当時は外国のそんな遠くへ行った経験を持っている人はいなかったから、嘘か本当か知らないが、その外国経験が英語教育には役立つだろうと東飯田中学校の英語の先生に採用されたのだという噂があった。
 
 実際は同志社の卒業とかで実力はあったのだろうが、シベリアだろうがエジプトだろうが、捕虜であろうと密出国であろうと外国に行った経験があれば、もうそれだけで田舎では「英語ができる」というレッテルが貼られた時代であった。私が中学に進学したころは職業という科目があって、一年生は英語は必須だったが、二年になると職業か英語かのどちらかを選択するようになっていた。
 
 私は大きくなったら早稲田に行くんだから、どうせなら英語の方を採っておいた方が将来役に立つだろうと勝手に考えて英語を選択したが、内村先生という肝心の先生ときたら英語と習字とを掛け持ちで教えていたくらいだから、私は東京の中学に転校するまでは英文に受け身や能動態というものがあることすら知らなかった。森中学校の英語教育も当時はずいぶんいい加減なものだったような気がする。
 
 そのころ「自転車泥棒」という映画があって、塚脇の「玖珠館」で長く上映されていたが、いい映画だということで学校からも連れて行かれたことがある。映画を見たあとで河上先生が同級生の中園君らに、「どうだ、お前たちにもホワッチュアーネームという英語が分かったか?」と訊いた。その時は、さすがに英語の先生は映画の中のあんなに早口で喋る英語も分かるんだなぁと感心したものだが、大きくなってから中園君が、「あれはイタリア映画だろう、イタリア人が英語で喋るわけがないじゃないか! 田舎の英語の先生なんて、あの程度のいい加減なものだったのかなぁ?」といって憤慨していたことを思い出す。
 

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