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実朝と公暁    七の章 1


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実朝と公暁   

            七の章  その一 


 比叡山延暦寺の怪物性は、「平家物語」によく語られているが、また園城寺も、延暦寺に劣らぬ怪物性をもった大寺院であった。別名を三井寺とも呼ばれるが、これは天智、天武、持統の三代の天皇が誕生したとき、この寺より産湯の水を召されたことからつけられたとも言われている。そんなことからも、延暦寺が反権力の色彩を濃厚に放つの対して、園城寺はむしろ朝廷の権力と直結した貴族的な寺院だった。しかし貴族的というのは延暦寺に比してであって、高倉の宮がこの園城寺にたてこもり蜂起したとき、園城寺は三千の僧兵を擁して官軍に対峙するのをみたって、園城寺もまた政治的、軍事的権力を擁した怪物的な寺院だった。この時代の寺院とは一つの国家のような機能をもっていたのである。
 この高倉の宮の乱は、清盛を怒らせ重衛(しげもり)に園城寺焼き討ちを命じている。冶承四年(一一八○年)の十二月、重衛が一万余騎を引き連れて進発したが、そのあたりを「平家物語」は三井寺炎上という章をもうけて次のよう記している。

「夜いくさになりて、暗さは暗し、官軍寺に攻め入りて、火を放つ。焼くるところ、本覚院、成喜院、真如院、花園院、大宝院、清瀧院、普賢堂、教待和尚の本坊、ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘楼、経蔵、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御宝殿、すべて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、並びに智証の渡し給へる一切経七千余巻、仏像二千余体、忽に煙となるこそ悲しいけれ」

 しかし園城寺が焼き討ちにあうのはこれが最初ではなく、それ以前に犬猿の関係にある延暦寺の襲撃を四度も受けているのだ。この園城寺が怪物的なのは、このようにたび重なる焼き討ちにあっても、不死鳥のようにそれ以上の規模をもって再建されていくことだった。
 建保二年(一二一四年)の五月に、園城寺はまたも、延暦寺の僧徒たちの襲撃を受けた。大津の祭礼の日の騷乱が、騒乱を呼び、ついに延暦寺の僧たちが、園城寺を襲うのだが、夜闇にまぎれての数百の武装した僧兵たちの襲撃を防ぎようがなく、院や堂などの建物の大半が炎上した。公暁が、この寺に寄宿してから、四年目のことだった。
 すでに少年から、きりりとした青年になっていた公暁は、僧たちの武器であった薙刀を手にすると、押し寄せる延暦寺の僧たちの群れに躍りかかり、ばさりばさりと打ち倒していく。ただ者ではないその快刀乱打に、延暦寺の僧たちはあたふたと逃げまどい、公暁が立ち塞がった堂には、誰も近づくことはできなかった。
 その翌日、今だにあちこちで炎上した院や堂がくすぶるなか、公暁は呆然としている僧たちの前で、大演説をぶった。
「聞けば園城寺が延暦寺に襲撃を受けること、五度だというではありませんか。これはいかに園城寺が彼らにこけにされているかのあらわれです。これほどの被害、これほどの屈辱的な襲撃をうけながら、なんらやつらに天誅の反撃を加えないとはいったい何事でありましょうか。やられたらやり返せ、やられたら徹底的にやり返す。それです。その精神です。今、園城寺に欠けている精神は。延暦寺を同じように焼き討ちにして、やつらに園城寺の力を思い知らせるべきなのです」
 と激しい檄をとばすと、もうその日のうちに僧たちを組織して、報復の部隊をつくりだそうとした。しかしそんなことを園城寺の別当長顕が許すわけはなかった。長顕は公暁を呼びつけると、「そなたを鎌倉から預ったのは、そのような騒乱を起こしてもらうためではない。そなたがここで修行するのは、ただひたすら仏の道に入るためなのだよ」と諭した。
 公暁は長顕を深く尊敬していたがこのときは強い反抗の視線を向ける。そんな公暁に、長顕はさらにきっぱりと言い渡した。
「今、園城寺はざわついている。そなたの激しい性格をいたずらに荒だてるばかりだ。このままでは大きな過ちを犯す。そなたを誤った道に追い込んでは、鎌倉に申しわけがたたない。そこで、そなたを大学寮に入れることにした。かねてから藤原卿にその手続きを頼んでいたが、身一つで寮に入ればよいことになった。しばし学業なるものと向き合って、歴史の流れに思いをはせ、新しい公暁をつくりだす時間をもたれよ」
 かつての大学寮は、下級貴族の子弟のための官僚養成の学校であったが、最近は大納言や大臣の子息も競って入ってくるようになっていた。政権を鎌倉に奪われた朝廷では、世襲によって降ってくる地位だけにすがって生きることができなくなっていた。その地位からも追放されかねない日々なのだ。高級貴族の息子たちが競ってこの学校に入ってくるようになったのは、その危機が高級貴族たちの身にも迫っているということでもあった。
 長顕は公暁をこの学寮に入れて、明経道や文章道を学ばせようとしたのだが、公暁の学業生活が続いたのはわずか半年足らずだった。同じ寮に寄宿する公家の子弟たちと派手な立ち回りを演じ、一人の腕を叩き折り、もう一人の鼻を潰し、さらにもう一人を井戸に投げ込むという沙汰を起こしてしまったのだ。大学寮はこの事件をどのように決着するかに苦しんだ。なにしろ公暁は二代将軍の息子である。下手に処分など下せば幕府を怒らせかねない。かといってあいまいにお茶を濁すような処分では、貴族たちの怒りの声がさらに高くなる。日頃反目しあう貴族たちも、このときは心情が繋がるのか、公暁を追放処分にせよと声を一つにして攻め立ててくる。政権を奪い取った鎌倉に対する恨みつらみが骨の中にまで浸みこんでいるのである。
 だからといって一方だけを処分することはできない。事件を子細に調べてみると、あきらかに非は公家の子弟たちにあるのだ。さて、どうしたものかと、右往左往する大学寮の姿をみかねた公暁は、それならばと自らを追放処分にして決着させてしまった。たった半年の学寮生活だった。しかしその体験は公暁にとって小さなものではなかった。後に公暁が創設する修学院は、このときの体験から生まれたものだった。
 半年ぶりに園城寺に戻ってみると、あちこちで建設の槌音が響き、以前にも増して寺院全体に燃え立つものがあり、活気にあふれていた。園城寺の怪物性はここにあった。寺院が焼き討ちされると、さらなる勢いで、さらに大規模な寺院が建立されていく。
 園城寺に寄宿する僧の数は、ときには三千人を越えた。これだけの人間を擁するには、寺院の組織が高度に機能していなければならない。三千にものぼる人間に食を供するには、米や菜の供給基地である、園城寺直轄の所領地の運営を厳しく行うばかりでなく、僧たちが山林を切り開き、田畑を開墾し、そこで米や麦や菜をつくるという事業まで、取り組まなければならないのである。園城寺の再建が素早く行われたのも、僧たちが木立を切り出す仕事をなし、さらに工人となり、大工となって、普請に立ち向かう組織を、素早く確立したからでもあった。また山道を開削し、橋梁を架け、人々に医療を施し、浮浪する者たちへの炊き出しなど、さまざまな社会活動も行われているのだ。




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