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山百合の中で眠ると死ぬぞと父は言った菅原千恵子

あいこの13


愛しき日々はかく過ぎにき  菅原千恵子


 父の仕事が、酪農協同組合に変わってからというもの、これまでのようなお役所仕事ののんびりしたものとはずいぶん様子が変化し、忙しくなって家族団らんが少なくなっていた。乳牛の品評会の審査や、酪農農家が休みになる、お盆の頃や、農閑期を中心にして、酪農農家を集会所に集め、そこで酪農指導をするのが父の主な仕事となっていた。ジープや自動車が入り込めない山路もあり、そんなときは途中で自動車を乗り捨て歩かなければならなかった。

 私も夏休みになると、よく父のお供と称して一緒に行動を共にした。朝早くから出発して夜の九時ごろに家に帰るということは当たり前だった。まず、道路が今のように整備されていないので、父の行くところは、がたがた道がほとんどだったし、とにかく時間がかかるのだ。開拓農家がほとんどであれば、町の中心部から遠いところに土地を切り開くものと決まっている。そこへ父達が出向いていって、酪農を薦め、また、乳牛の飼い方を講義するのだ。

 小さな分教場に、農家の人たちが集まってくると、私は、校庭に出てぼんやり雲を眺めていたり、分教場の隅のほうで、父の乳牛の扱い方などを一緒に聞いていた。父は、皆を笑わせるつぼを心得ていて、農家の人たちは、お腹を抱えて大笑いをしている。入ってきたときの険しくて疲れたような顔の人たちがなごやかに笑っているのを見て、私までなんだかうれしくなってくるのだった。ここにやってくるまでで、父も私も滝のような汗を流して登ってきたことさえ忘れ、分教場に流れる心地よい風の中にいることを家にいたら味わえない幸せだと思った。

 父の話が終わり、帰る頃になると、この開拓地で採れたじゃがいもなどを取りまとめて私たちにくれたが、下りの道のりを考えて、父はもらうことをためらっていた。
「いいがら、心配しねくても、おれが担いで自動車停めだどこまで持てってやっからっしゃ。なにも心配すねでいいがら」
 父の迷いを見通すように、先回って言われて、父も苦笑いをしながらありがたくじゃがいもの袋を受け取った。

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 帰り道は、夕暮れとなり、深く緑濃い山々から沸き上がるように、日暮らしの声が響いてくる。帰りの山や、土手の斜面に、山百合が白くぽおっと浮き立つように群れをなして咲いている。父は、ことのほか山百合が好きだった。山百合の咲いている下に車を停めてもらい、身軽にそこまで登ると、たわわに咲き誇る山百合を、抱え切れないほど手折って戻ってきた。窓を明け放っていてさえ、濃厚な百合の香りが車内にあふれた。私は深々と胸一杯に匂いをかぎ、これとじゃがいもが家族皆へのおみやげだと思うと、びっくりしている姉や母達の顔が浮かんで今すぐにでも早く帰りたいとおもった。

 暑い夏の一日だった。家にいれば何もしないでただ暑い暑いとごろごろして終わってしまう一日だったが、こうして父の仕事について行くことで、父がどんな仕事をし、開拓農家の人達とどんな関係を持っていたかを、今鮮明に思い出すことができる。車にゆられて眠くなった私が眠り始めると、父に、起こされた。

「山百合の中で眠ると、死ぬぞ。死ぬぞ。山百合に囲まれて自殺しようとした人さえいるんだから」
「えっ、本当に死んだの? その人」
 私が驚いて聞き返すと、父は、聞いた話だから分からないが、それほど山百合の匂いはきついからだろうといって笑った。山百合の匂いで死ねるなどという話を、「赤毛のアン」に聞かせたら、あまりのロマンチックさに、気絶するかも知れないな、などと思いながら、私はやっぱり眠ってしまっていた。それでも死ぬこともなく、もうろうとした状態で家に着いた時起こされたのだ。

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 この頃私は「赤毛のアン」に夢中で、夜眠るとき、何度となく繰り返し繰り返し読み、暗記するほどだった。アンみたいな夢想家となっても別にいいのだ、許されるのだと思うことで、幼いときから私が抱えていた、現実と空想の境目を認識できないという自分の空想癖を恥じずにいられたのだった。空想の世界に入ってしまうと、よほどのことがない限り、現実生活に戻れないという私個人の癖をこの頃自分でも知っていて、密かに苦しんでいた。ある意味で、それは当時の私には深刻な問題だったのだ。

 私がこの時期になっていても抜けられない遊びが、人形遊びだった。人形を使っていろいろな世界に自分が生きているような楽しみをどうしても手放すことができないのだ。人形に対する執着は、小さいときからあったが、もうすぐ中学生になるというのに、まだこんなことをしているのかと、父にもいわれ、お嫁さんにいってもお人形さんで遊んでるんじゃないのかと母にもいわれ、自分でもこの世界から抜けられないのは異常だと知りつつやめられなかったのだ。しかし、なんとかお人形遊びから抜け出なければならない。S子や、H子が抱えている世界もかなりわかってきていて、心も少しづつ大人になっているのに、人形で空想することから離れられない自分が情けないと思っていた。

 これを断ち切らなければ私は、とても中学生になんてなれないに違いないと思い、とにかく、目の前から無くすしかないと自分なりに悩みの果てに考えた。そして、庭に穴を掘って、ビニール(この頃から、風呂敷とか袋が出回り出していた)に人形を包み、掘った穴に埋めたのだ。こうすることには、かなり強い決心が必要だったことも確かなのだ。今夢中になっていることから自分自身を切り放すことによってしか、乗り越えられないものがあると信じていたからかもしれない。

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 I町にいたときに買ってもらったミルク飲み人形と違って、今もっているのはカール人形といい、栗色の髪をポニーテルやドーナッツという髪型にすることができ、櫛やブラシで髪をとかしつけるだけで、自分が「ラプンゼル」になったり、「ローレライ」になったりできるのだ。それは、キリストの像や、マリア像を通して、神の世界に近づくようなもので、私はこのカール人形を通して、西洋の物証世界の主人公に近づいていたのだと思う。

 このカール人形は四年生の時のお年玉で買ったものである。自分ができない髪型にしたり、人形の髪をいじっているだけで、きりもなく空想の世界に遊ぶことができた。 こうした人形遊びというよりは人形遊びを通して自分の空想に浸る、この癖とも呼べる傾向を、私はなんとかしなければと長い間悩んでいた。ぼんやりしているとか、また夢ばかり見ているとか、母にいわせれば「夢作」という特別な名前で持って呼ばれていた私は、夢を見ることは恥ずべきこと、大人としてあるまじき姿と信じていただけに、「赤毛のアン」の出現が私にとってどれほど心強かったことか。

 夢見て暮らすことが人生を豊かに楽しくさせるのだというのを私は「赤毛のアン」を読むことによって知った。私の中で、空想すること、夢見ることがこの頃、初めて大手をふって市民権を得たようなものだった。もう、誰に遠慮することもなく、大胆に、空想の翼を広げ、好きなところへ飛び回っていた。こんなことに身も心もたっぷり浸らせるごとで、私の五年生が過ぎていった。

 父と行った開拓部落での出来事は、このときから何十年もたっているのに、抱えきれないほどの山百合の中で眠ってしまった幸せが、つい昨日のことのように思い出される。ただただ夢見ていた当時の私は、このときの自分を山百合に包まれやがて眠りから目覚めさせてくれる王子様の登場を待っている、眠り姫だと密かに思い、そのことにえもいわれぬ満足を感じていた。

 見る夢だけならそれはただだし、現実とたとえ大きく違っていたとしても、誰に知られることもない。自分が、目も眩むような金髪の絶世の美少女であることも、空想の中でなら許される。私は自分と同じように空想たくましくしている友達に巡り会えたらどんなに楽しいことか、そうした友と心をさらけだして語り合いたいとこの頃から盛んに友を求めるようになっていた。しかし、まだ私の前にそのような友は一人も出現していなかった。

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