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心騒ぐ日    菅原千恵子

 中学二年に進級すると、まず教室がどこになるかが大問題だった。新しい、鉄筋三階建ての教室に入る人たちと、近くの高校の雨天体操場を二つに区切った教室に入る人たち、それに以前からある古い木造の教室に入る人たちと、三つに区分されるからだ。私は、このときほど、自分の不運を呪ったことはなかった。残念なことに、私は、渡り廊下でかろうじてつながっている雨天体操場の教室に決まったのだった。そこは天井が高く、しかも通気孔のためかどうか、上のほうにはガラスのない大きな窓があって、校庭でやっている体育の授業や、隣の教室の授業やらが、なんでも聞こえてくるのだ。

 絶望的な気持ちの中で、たった一つうれしかったのは、玲子によって紹介された幸代という少女と同じクラスになったことだった。一年の時、玲子と幸代は同じクラスだった。何度か話したこともあり、話しているうちにも自分たちは多分「同類」に違いないと信じあっていたし、私と同じように「赤毛のアン」の大ファンだという共通性があったからだ。彼女は、近くにあるミツシユン系の小学校に通っていて。中学校になるとき私達のM中学校に変わって来た。だから、クラスがえがあろうものなら、すぐに独りぼっちになってしまう。そんなとき、私が同じクラスにいるのを見つけるや、満面の笑みを湛えて、すぐ私の所にやってきた。
「よかったあ、だあれも知らない人たちばっかりかと思っていたのに、千恵ちゃんがいたのでほっとしたわ。同じクラスでよかったわ、一年間よろしくね」

 幸代は小柄で、私よりも背が低い。玲子とは同じクラスになれなかったけれど、私は幸代にもかなり興味があったので、これから、また新しい友達関係が始まるのだと思うと、それだけで気が晴れ、この一年を過ごすことが楽しみになっていた。私達の担任は、新しくほかの学校から来た美術の男の先生で、眉の毛が太くてぼさぽさだった。一年生の時の担任のどっしりと落ち着いた感じとはずいぶん違っていて、少しがっかりだったが、私は幸代と同じクラスになれたことで他はもう、はとんど目に入らない状態だった。強いていえば、教室のひどいのだけが不満といえば不満なぐらいである。

 私達は今年四月から、女子生徒は全員制服の着用が義務づけられ、それまでも制服がなかったわけではなく、二番目の姉の時から好ましい標準服ということで、姉が三年生の時に作ったのだ。もったいないからということで私は姉のお下がりを着ることになったが、いつもいつも小さいときから姉達のお下がりを着なければならないのは、下に生まれたものの宿命と思うしかないのだろうか。もう少し大きくなって、お上がりというようになればどんなにか胸がせいせいするだろうと思いながら、紺の制服で、学校に通い始めた。

 半コートも姉のお下がりだったことから姉を知っている先生に、
「君は、もしかして、菅原美智子さんの妹さん?」
と聞かれたので、はい、そうですと応えると、その先生は、自分の見当が間違っていないことがうれしかったのだろう。笑いながら満足げにいったのだ。
 「やっぱり。お姉さんと同じコートを着ているから、すぐに分かったよ。でもあまり似てないけど、そのコートには見覚えがあるんだ。お姉さんは、優秀だったね」
 中学に入学した時から、私は、クリーニング屋のゆっ子と通うことになった。なにという話があるわけでもなかったが、彼女はもう三年生で、受験が待っていた。その点、私はもう少し時間があるのでのんびりしていた。彼女は、勉強がつまらないし、先生のえこひいきも嫌だといつも嘆いていた。私はゆっ子から、上の学年の先生の噂とか、受験のための心得とかの情報を手に入れていたのだ。しかし、不思議なことに、引っ越してきたばかりの頃のように一緒に遊ぶことがないばかりか、いつのまにか、話しさえもあわなくなっていて私達をつなぎ止めているものがあるとすれば、かつて一緒に遊んだという記憶だけだったのだ。

 私は自分の心がどんどん変化して行くのが不思議だったが、それと同時にゆっ子に対して自分の心が前と同じでなくなっているのが、なんだか申し訳ないような気がして少し辛かった。しかし、それも学校の門をくぐって分かれてしまうとそんな思いは跡形もなく消えてしまい、私は幸代の姿を求めて教室に駆け込むのだった。幸代との一年間の日々を私はどう表現したらよいのだろうか。幸代は歌が好きで、それも私と同じ共通のものだった。幸代は、私が一番上の姉に教えてもらった歌を、教えて欲しいというので、私達はいつも休み時間になると歌ってばかりいた。流行歌などには目もくれず、「花のコーラス」という小型の歌の本を買ったので、それを次々と覚えて行くのだ。幸代はソプラノのきれいな声だったから、私がアルトを歌うと、ここちよいコーラスが楽しめる。玲子とはこんな楽しみ方ができなかった分私は、幸代に夢中になっていた。

 もちろん、玲子とも今までと変わることない友情は持っていたが、何しろ玲子は、新しい校舎に入っているので、私達とは距離的に遠くなってしまったのだ。休み時間を利用して玲子の教室まで行こうとすれば、何も話さないうちに、チャイムがなってしまいかねない。いつのまにか疎遠になっていったということだったかも知れない。それでも、私と玲子や幸代は、何を血迷ったか数学クラブに共に入部していた。一番安定した活動だったし、私の好きな数学の教師が顧問だったということもあったような気がする。
 
 一年の時に増えていった友達とのつながりは、二年になってます強く深くなっていた。クラスは違っていたが圭子というクリスチャンの少女ともよく本の話や心の中を語り合うことが多かった。もちろん、玲子にとっても幸代にとっても圭子は共通の友であった。圭子は熱心なクリスチャンだったので、日曜日になると、教会に通うためS市の中心部まで出てくる。その後の時間を本屋に行ったりしてから家に帰るのだという。私は、西洋的な彼女の立ち居振る舞いにすっかり憧れていたので、一度教会というところに行ってみたいというと、彼女は喜んでぜひどうぞといった。
「教会の扉は誰にでも、いつでも開かれているのよ。今度の日曜日に一緒に行きましようよ。私の行っている教会ならいつでもご一緒できるわ。」
 
 圭子が通っている教会はカソリック系だったので、私はそんな準備もなく彼女と共に入って行くと、圭子はバッグから白いレースの布を取り出し頭にかけた。回りを見ると、信者はみんな頭に白い布をかけている。賛美歌を圭子に見せてもらって、私は歌うまねをしていた。自分が白い布を頭にかけていないことがちょっと引け目に思っていた私は、圭子に聞いた。
「その白い布はどこで買うことができるの?」
「これは洗礼を受けた人だけかぶれるのよ。だから千恵ちゃんは必要ないわ。」

 圭子はあくまでもきれいな濁りのない標準語で答える。私が、中学に入ってからつきあい出した友人達の幸代や圭子もことばがきれいで、私はそれもたいそう気に入っていた。圭子は教会でたくさん人たちとつきあっていたためだろうし、幸代は、ミッション系の小学校に通っていたためかも知れない。女の人が奇麗なことばで話をするのは、なんて良い印象を与えるものだろうと感激してしまった。「赤毛のアン」だって、とても丁寧な言葉を使っていたではないか。Kの使うことばが、まるでアンのことばに近い。「先生が言いなすってたでしょう?」などというのだから。私も、この頃からことばには気をつけようと思い始めていた。それでもターニング屋のゆっ子と話すときは、相変わらずS弁でしゃべっていて、私はそれらをうまく使い分けていたのである。

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 春の遠足の日がやってきた。学校前に並んだ十八台のバスは最後尾がどこにあるのか分からない程遠くにあった。行く先は、中尊寺の近くにある、厳美渓という川で、残念なことに中尊寺は、あまりの人数の多さから、境内入場を断られたらしいという噂が立っていた。私達は、片道三時間ほどのバス旅行の間中、弘田三枝子が歌ってヒットした、「バケ-ション」や、中尾ミエが歌う「可愛いベイピー」などを歌っているうち目的の場所に着いた。「VACATION、(プイエイシイエイテイアイオエン)夏休み」と誰かが叫ぶと、バスの中の残りの者たちもいっせいにVACATIONと繰り返し連呼する。一つのヒット曲は、みんなの共通のものとして完全に定着していた。

 テレビの話題なら、誰もが同じイメージで話せる共通の話題として、私達は授業中でも誰かがコマーシャルなどを声高くいっただけで、大笑いとなることはしばしばだった。特に、私達と同じ世代の弘田三枝子は人気があって、この頃、よく意味もわからないのに、「弘田三枝子はパンチがあるよ」などとそれぞれ口走っていた。彼女が歌っているコマーシヤルは、誰でも知っているし、どんな画面かもすぐ思い浮かぶのだ。バスのなかで、ある男子生徒がクイズを出した。
「お腹にやりが刺さって、痛くて仕方がありません。さてどうすればいいでしょう?」
 すると即座に他の男子が答えた。
「アスパラでやり抜こうだろう? まあ、ざっとこんなもんさ。おれにはこんな問題なんて軽い軽い。」
 という具合で、当時の私達はテレビのコマーシヤルにすっかり毒されていたといってもいいくらいだった。

 ただ流れの急な川と毛越寺(もうつうじ)を見学しただけの遠足は、あっけなく終わったかに見えたのだったが、私達のクラスはこの遠足で意外な事件を引き起こしていたのだ。それは厳美渓の茶店で、置いてあった万年筆十本が店からなくなっており、私達の学校の遠足で来た生徒が引き上げた後で発覚したというのである。茶店の主人はすぐ警察に通報したことから、私達の学校に調べが入ったのだ。それでも千人近い生徒の数の中から、犯人を見つけだすのがいかに困難だったかは、連日のように体育館に集められて(新校舎ができた時点で、体育館は教室ではなくなっていた)。訓戒を聞かされたことからもわかった。
「やってしまったことをいまさら咎めたりはしないのだから、自分が取ったというものは、こっそり担任の先生に話すように。黙っていると自分が苦しいだけだよ」

 という話を耳にタコが出るほど聞かされたが、告白して咎められないなどということばを信じる者など誰一人いなかったと思う。毎日毎日一週間にも及ぶ調査でも、万引きした生徒は見つからない。警察も先生も仕方なく。お店の主人に来てもらい、万年筆売り場に居た生徒の顔を思い出してもらおうという話になったとき、私達のクラスの一人の男子生徒が、内密に、先生に打ち明けたらしい。しかも取った十本の万年筆を、我がクラスの二人の男子に分けたというのだ。万年筆に関わった三人の生徒は、親も学校に呼ぱれ、警察にも行き厳美渓の茶店にも弁償し、何一ついいことがないまま、叱られるだけ‘叱られて終わった。

 嘆いたのは、私達の担任だった。彼は、いまだに自分のクラスの生徒の名前を全部覚えておらず、呼び止められても自分の名前でなかったり、間違えて、違う人の名を呼んだりするのだ。いくら一週間に二時間しか担当しない美術の教師といっても、自分のクラスの生徒の名前ぐらいしっかり覚えてよという気持ちは、みんなの胸の中でくすぶっていた。

 私達を熱意で受け入れられない教師にことごとく私達は反発した。特に男子生徒の先生に対する怒りは強かった。
「たまには枕を高くして寝かせてはしいんだよ。年中、君たちが事件を起こすもんだから、このクラスの担任になってからというもの、私は枕を高くして寝たことがない。いったいどうしてくれるんだね。私は、君らの後始末をするために、この学校に来たわけじゃないんだ」
 先生は、自分のいらだちを私達にがんがんぶつけてきた。男子の何人かが舌打ちをしている。私の隣りに並んでいる男子生徒は、先生に聞こえないような声で、呟くのを私ははっきり聞いた。
 「おれ達だって、おまえなんかに来てほしくなかったんだぜ。おまえは、げじげじ以下だっていうんだ。げじげじと呼ぶのさえ、げじげじにすまないくらいだ」

 先生には聞こえなかったが、他の人たちに、この呟きは聞こえていた。この日から先生は、げじげじという不名誉な仇名で呼ばれることになった。先生は、生徒のことより自分が可愛いのだ。生徒が起こしてしまった事件を嘆くのは自分のプライドのためであり、他の先生から後ろ指をさされたくないためなのだ。先生のそんな自分の名誉ばかりを考えている姿は、当時の私達にはひどく醜いものに映った。

 学活も、朝と下校前のホームルームも、いつもこごとと、先生の嘆きで終わり、私達にとっては何の潤いも楽しさも感じられない時間となっていた。何を相談しても的の得られない返事が返ってきて、相談したことさえ後悔しなければならない結果となるのが常なのだ。先生を非難することは半ば公然と行なわれており、始めのうちこそ先生をそんなふうに悪くいってもいいのかしらと思っていた私でさえ、いつのまにか、家でも先生を大ぴらに批判するようになっていた。一番上の姉が、私の激しい舌ぽうを聞いていていった。

 「先生をそんなふうに批判するのは良くないわよ。どんなに変なところのある先生でも、あんたよりは年上なのよ。年上ということは多くの経験をしているんだから、そんなふうに無茶苦茶子供がいっていいというものと違うんだからね。いいね、わかった?」

 姉のいうことも私には理解できたが、毎日毎日、小言や、愚痴を聞かされる身にもなってほしい。先生と男子生徒はいつも一触即発のきわどいところで均衡を保っていたといえる。最近の男子生徒は、目に見えて力をつけてきており、訳のわからないエネルギーを持て余しているように見える。声変わりし始めた濁りのある声で、罵声や叫び声を飛ばし、なんだか落ち着かなく、廊下などでたむろしていて女子生徒が通ると下品にのけぞって笑うのだった。

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