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角川インターネット講座/村井純ほか監修――紙の本はこうして生き残る!

●紙の本はこうして生き残る!

「あっ」
 このシリーズをはじめて見たとき、そう声をあげた。

 要するに驚いて声をあげたわけだけど、これを「驚いた」と表現してしまうと、多くのものがこぼれ落ちる気がする。やはりここは「あっ」と記すべきなのだろう。

「角川インターネット講座」と題された15巻シリーズ。現在刊行中である。
(2015年10月、このシリーズは完結した。本テキストはその刊行途中、2015年3月に書かれた)。

 記念すべき第1巻の監修者は村井純先生。その昔、先生の著書から多くのものを得た者にとっては感無量である。第2巻は世界中で用いられている唯一の日本製ソフトウェアといっていいRuby開発者のまつもとゆきひろ氏。ほかにも、楽天の三木谷浩史氏、ニコニコ動画の川上量生氏、ネット時代の思想家、東浩紀氏などが名をつらねている。

 監修者の人選、テーマの選定、タイトルの決定など、とてもみごとだと思う。むろん論によっては「手ぇ抜きやがったな」と感じられるものもあるが、この手のシリーズにそういうテキストが含まれるのは当然だろう。

 私はこのシリーズのたいへんよい読者である。たぶん15巻すべて入手するだろうし、収録された記事のほとんどに目を通すだろう。これは確約してもいが、そんな読者そうそういないぜ。

 したがって、そういう人間が発した「あっ」には意味がある。
 いったいなぜ「あっ」だったのだろうか。

 AmazonでKindleの開発にあたったジェイソン・マーコスキー氏によれば、電子書籍には紙の本には勝てない側面がいくつかあるという。そのひとつが、「電子書籍は、本棚に飾ることができない」点だそうだ。

 いかにも、電子書籍は本棚に入れられない。
 本はもちろん読むことが第一義だが、「見せる」ためのものでもある。本棚にはその人の思想が現れるというが、人の家に招待されると、その本棚をついつい眺めちゃたりする。あれは、本が本のかたちをしていて、「背」があるから可能なのだ。

 当然、見せるために生まれる本もある。世界文学全集のたぐいとかそうだろう。持ち主がこのシリーズでモーパッサンとかバルザックとかヘッセとかに親しんでいるとは、ちょっと考えにくい。むしろ「私は教養があります」というアピールがしたくて、この手のシリーズを揃えるんだろう。
 シリーズの装丁は豪華だし、インテリアとしても機能し得る。中身は保証されている。それを持ってると、教養豊かな人だと思われる。だから並べている。そんな人はたくさんいる。田舎のご大尽とかに多い。

 この「角川インターネット講座」のシリーズ、明らかにそういう購買者も想定に入れている。
 ここで最初の「あっ」が生まれた。
「インターネットで教養アピールできんのか!」

 すこし前まで、インターネットは勝手知ったるおたくどものフロンティアだった。
 ネットに接しているやつは、彼女がいなくて、匿名掲示板が大好きな、出かけるといえば電気街ばかりの、要するに非リア充ばかりだった(と思われていた)。田舎のご大尽は、そういう連中を軽蔑する。しかし、このシリーズはそんなご大尽を対象として考えて成立しているのだ。大した成長じゃないか!
「あっ」はまず、そこから発語された。

 もうひとつは、読まずともわかる。このジャンルの賞味期限の短さだ。
 世界文学全集は古くならない。どんなに時間が経過しようと、モーパッサンは、バルザックは、ヘッセは偉大である。それはいささかも変わることがない。

 でも、ネットは生き物だ。足が速い。
 あまりふれられないけれど、コンピュータやインターネットの世界にだって変わらないものはある。村井純先生が語られてることは(たぶん)向こう10年は変化がないだろう。まつもとゆきひろ氏もそうだろう。だが、モノによっては、早ければ来年には陳腐化する。

 そんなもんをシリーズで出すなんて! 誰だって、来年には古くなるものに金出したくないでしょう? 

 そういうものを、ある程度耐用年数を考えた形式で出す。
 大したもんだなあ、と思ったのだ。
 ふたつめの「あっ」はそこから生まれた。

 最後の「あっ」は、最初のそれに関わっている。

 シリーズ本をインテリアとし、部屋に飾るのは、田舎のご大尽の志向だと言った。もっとも、こんなやつは都会にもたくさんいる。バイオリンよりケースが大事なくそ野郎だよ。

 でもね、このニーズは絶対になくならないのだ。
 他人に蔵書の背を見てもらいたい、教養があると思ってもらいたい。そんな気持ちは誰にだってある。みんなある。私にだってある。
「背」を持ったシリーズ本は、そのニーズを満たすのだ。

「紙の本はなくならない」
 多くの論者がそう語ってきた。
 そりゃすぐにはなくならないだろう。しかし、学校で配布される教科書さえデジタルで表現されていて、文字とはモニタを介して眺めるものであることを常識として育った世代が、紙の本を求めるとはどうしても思えない。製紙会社や印刷会社が流した楽観論だと考えていた。

 でも、紙の本はなくならないんだ。
 お客に本の背を眺めさせたいご大尽、バイオリンよりケースが大事な人。
 そういう人がいるかぎり、本は飾られ続けるだろう。飾るための本は、かならず紙でできている。

 3つめの「あっ」は、それに気づいた「あっ」である。


(2015年3月)

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