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死んじまったから語ろう、世界一異様な人のことを

 その人の名は、ジョニー・ウィンターという。
 ついこの間死んじまったこの人は、どう考えても異様だった。奇怪だった。
 その異様さ・奇怪さについて語ろう。

 まず見た目が異様だった。彼はアルビノなのだ。
 皮膚の色も、髪も眉もまつげも、あらゆるものが白い。生まれつき病弱だという特徴も持っている。そういう人がたどる半生が普通じゃないのは、誰だって想像がつくだろう。
 そのうえ彼はロック・スターであり、ブルース・ギタリストだったのだ。

 あまり知られてないが、彼はジョン・レノンとミック・ジャガー、要するにビートルズとローリング・ストーンズ、それぞれから新曲提供を受けた、ただひとりの男である。
 ジョンとミックの共通項はおわかりだろう。彼らは富も、名声も、才覚も、美貌も、運も持っていた。神からほとんどすべてを授かったのだ。

 でも、ウィンターの異様さ・奇怪さだけは、彼らにはなかった。望んでも得られるものじゃなかったのだ。

 ミュージシャンにとって、楽曲とは血液であり、肉体である。ほいほい人にプレゼントできるようなもんじゃない。それをあげる気になったのは、彼らがジョニー・ウィンターの異様さ・奇怪さに、自分を見たからだ。彼らが心のうちに飼っているもの、音楽を通してしか表現し得ないものと、ウィンターは同じかたちをしていたのだ。

 ウィンターの音楽がもつ異様さ・奇怪さも、また他に類のないものである。

 音楽にはかならず、すき間、空間というものがある。それを上手に聞かせる者こそ、プロのミュージシャンたり得る。そう言っても言い過ぎにはならないだろう。
 ジョニー・ウィンターの音楽にすき間や空間はない。楽曲のありとあらゆる場所は、リードギターで埋め尽くされている。
 したくてそうしてる……のではない。追い立てられているから、焦っているから、余裕がまったくないから、ああなってしまうのだ。常人の表現じゃないのである。

 70年代中盤、ロック・スターだった彼は「もうブルースしかやらない宣言」をする。そして以降は二度とポップ・チューンを演奏しなかった。ブルースしかやらなかった。
 それも異常なことなのだ。

「過去作品はもう演奏しない宣言」を出すミュージシャンは多くいる。「過去の俺じゃなくて今の俺を見てくれよ」。心情としてはよくわかる。でも、貫き通せた人はいない。
 当たり前だ。観客が求めるのは、過去のヒットチューンなのだ。それを見る(聴く)ためにわざわざチケット買ってるのである。
 過去のヒット曲を所望するのは観客ばかりじゃない。ラジオやテレビのパーソナリティも、評論家も、友人・知人も、果てはバンド・メンバーさえ、過去の楽曲を求める。それにいちいち断りを入れていくのは相当にストレスだ。だから、ミュージシャンはやがて過去作品をくりかえし演奏するようになっていく。それが普通の流れなのだ。
 
 ジョニー・ウィンターの場合、デリンジャー作の「ロックンロール・フーチー・クー」がある。どこに行っても求められただろう。だが彼はやらなかった。ブルースしか演奏しなかった。そんなことができたのは彼だけである。

 彼が生涯を捧げた音楽がブルースだったというのも、彼の異様さ・奇怪さと関係があると思っている。

 *

 ジョニー・ウィンターはこないだ亡くなってしまった。自分がこれを語るのは今をおいて他にはないだろう。そして、語れるのもたぶん自分だけだ。なんとしても言い残しておかねばならぬ。そう思った。

 初来日公演のレポートはここに書いている。東日本大震災とからめたレポートだ。よくできていると思っている。(今はこちらに公開しているが、もともとは商品として描き下ろしたものだ)

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