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これを出版していること、まさに偉業である――講談社『今昔物語集』

●他に類を見ない名コレクション

『今昔物語集』について、まったく耳にしたことがない人は少ないだろう。文学史の授業では必ず話題になるだろうし、歴史で取り上げられることもあるかもしれない。古文の教材やテストの題材にもなっているし、芥川龍之介の傑作『鼻』『芋粥』『羅生門』いずれも『今昔物語』の翻案である。近年では、福永武彦の優れた翻訳もあったし、夢枕獏にもこれを素材にした小説があったはずだ。これから作家になろうという人も、『今昔物語集』にふれる人は多いだろう。

それほど有名なものであるから、当然のこと、複数の出版社から本が出ている。『今昔物語集』と題された本はいくつもあると言っていいだろう。

しかし……しかし!
この文庫集の出版は偉業なのである。すくなくとも私は、講談社の最大の偉業は、このシリーズを出版していることだと思っている。

なぜこの本を出版することが偉いのか。『今昔物語集』と題された本はいっぱいあると言ったばかりじゃないか。しかも、これは古典だから、作家への著作権料の支払いも生じない。原価は相当安い。まあ、本集には国東文麿さんによる現代語訳(名訳だ)がついているから、古典にしては原価が高いほうかもしれないが、あくまで「古典にしては」というレベルである。普通の新刊図書より絶対安くできてるよ、これ。

しかし……しかし!
本集の出版は偉業である。とにかく、出していることがすごいんだ。
なぜ本集がすごいのか。それは、『今昔物語集』の性質を知ればわかる。

『今昔物語集』はその名のとおり物語集成であり、3つの部分から成り立っている。ひとつはインドの話を集めた「天竺部」。もうひとつは中国の話を集めた「震旦部」、そして、日本の話を集めた「本朝部」である。分量的には、本朝部つまり日本の話が、全体の半分を占める。
じつは、芥川以下、『今昔物語』を小説の題材とした人は、たいてい本朝部から材をとっている。『鼻』も『芋粥』も『羅生門』もそうだ。芥川なんざ、次のような言葉を残している。

「本朝の部の最も面白いことは、恐らくは誰も異存はあるまい」

まあ、私に言わせりゃ「そりゃ本朝部の量が多いからだよ」となるのであるが、日本の話のほうが何かと想像しやすいのは事実だろう。本朝部を持ち上げたくなる気持ちはよくわかる。

しかし……しかし!
本集は本朝部ではないのである。天竺・震旦部だけで構成されているのだ。後世の文学の下敷きになることはほとんどなく、古典の教科書やテストに採用されることもめったにない。日本の歴史にはほぼ無関係、したがって取り上げられる機会もほとんどない。そんなマイナーな、天竺・震旦部だけを選んで出版している。すげえよ。だってマイナーって、読者が少ないってことだぜ? たとえば芥川の『鼻』に興味もったって、本集を入手することは絶対にないのだ。だって、載ってないんだから。しかも、上記の芥川の発言がある。これを知ってて天竺・震旦部を読もうという人はまずいないだろう。
そういうものを、文庫というアクセスしやすい形式で提供している。ほんとすげえと思うんだ。偉業と主張したくなる気持ちもわかっていただけるだろう。

思ったことがある。
将来おじいちゃんになったら、毎日『今昔物語集』を読むんだ。天竺・震旦・本朝、すべての話を一日ひとつ読むだけで千日以上かかる。なんてステキな人生の夕暮れだろう。そう思っていた。
この夢にちゃんと天竺・震旦部が含まれているのは、それが本朝部と同じぐらいおもしろいことを知っていたからだ。それを教えてくれたのは本集がアクセスしやすい場所にあったからである。本集が文庫でなかったら、たぶん手にとってはいないだろう。天竺・震旦部もおもしろいと知ることはないだろう。この夢から除外されていた可能性もある。だとすれば、ますます偉業である。

第五巻は天竺の話を紹介しているが、無類におもしろい。
たとえば、「僧迦羅・五百の商人、ともに羅刹国に至れる語」は今のスリランカ、セイロン島を舞台とした話が述べられている。
昔、セイロン島は美女の島だったんだってさ。男もブスも老女もいない。だから、船が難破してセイロンに流れ着くと、船員はみないい思いをする。ところが、この美女の正体がじつは……。

ね? ワクワクするでしょ? 日本が舞台だとこういうスケールの大きい話をするのは難しいのだ。


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