見出し画像

幻の鉄道を往く(2):呼子線~消えた高架橋と残ったトンネル

※初出:「幻の鉄路をたどる(2) 呼子線 消えた高架橋と残ったトンネル」『鉄道ジャーナル』2014年5月号(571号)、鉄道ジャーナル社

東松浦半島を一周するはずだった呼子線の第一大友トンネル。路盤は草木に覆われ自然への回帰が始まりつつあった。【撮影:草町義和】

未成線を「たどる」と銘打った以上、少なくとも工事が行われた区間の起点から終点まで、満遍なくたどってみたいと思う。ただ、九州北部の東松浦半島に計画された呼子線の起点はどこなのか、少し迷う。

計画区間は虹ノ松原~唐津~西唐津~呼子~伊万里間の約63kmだが、虹ノ松原~唐津間は筑肥線として開業しており、唐津~西唐津間も既設の唐津線を高架化する形で整備されている。未成区間の起点は西唐津駅のはずだ。

しかし、起点は西唐津駅ではない。唐津駅から西唐津行きの列車に乗り、単線の高架橋を約1.4km進んだところが未成区間の工事起点(虹ノ松原起点6km460m)になる。

呼子線のルート。実際に工事が行われたのは呼子以東だけだった。【作成:草町義和】

■唐津線の途中から始まる未成線の旅

2014年2月3日(水)の朝、唐津駅から唐津線の高架橋の側道を歩いて工事起点を目指した。既設駅が起点なら未成線の旅がすぐ始まるのに、面倒なところに起点を設けてくれたものだと愚痴を言いたい気分だ。おまけに前回の阪本線と同様、天気がどんよりとしている。単に曇り空というだけでなく、PM2.5の濃度も高いらしい。

西唐津駅の前後は工事がほとんど行われていないらしく、何の成果も得られないだろうと思っていたが、しばらくすると単線の唐津線高架橋が少しずつ西側に膨らんで複線分の幅になり、県道23号との交差部の手前で一気に縮小して再び単線幅になった。複線幅から単線幅に戻る部分は切り欠きのようになっていて、線路の分岐を準備していたことが分かる。成果が得られて少しホッとした。

未成線としての呼子線の工事起点は唐津線唐津~西唐津間の中間。唐津線の高架橋は現在も呼子線が分岐できる構造になっている。【撮影:草町義和】
西唐津行きの列車から見た呼子線の工事起点。【撮影:草町義和】

呼子線は、佐賀県唐津市から東松浦半島を海岸沿いに進み、旧呼子町(現在の唐津市呼子町)を経て伊万里市に至る未成線だ。1961年(昭36)6月16日、改正鉄道敷設法の予定線となり、1964年(昭39)9月28日には日本鉄道建設公団の基本計画に工事線として盛り込まれた。

路線としては地方開発線(A線)だが、唐津市内のターミナルを集約する既設線改良の目的も兼ねていた。松浦川で市域が分断されている唐津市は、鉄道のターミナルも福岡市に延びる筑肥線の旧東唐津駅と、佐賀市に伸びる唐津線の唐津駅に分かれていたためだ。そこで呼子線は、旧東唐津駅の一つ手前にある筑肥線の虹ノ松原駅から唐津駅に乗り入れて唐津のターミナルを唐津駅に集約し、その上で東松浦半島を一周する計画だった。

唐津の中心市街地を通る虹ノ松原~西唐津間は、都市計画の調整や用地買収に時間がかかることから、西唐津駅の少し先にある唐津市桜町から呼子までを第1期区間として工事を先に進めることになり、1967年(昭42)12月11日の工事実施計画認可を経て1968年(昭43)9月1日から工事に着手。1974年(昭49)5月31日には、第2期区間の虹ノ松原~唐津市桜町間も認可されて工事が始まった。

ただし、唐津~西唐津間は既設の唐津線を連続立体交差事業により高架化するため、第2期区間の実際の工事区間は虹ノ松原~唐津間と、唐津市菜畑・二タ子1丁目境界付近~唐津市桜町間に分けられた。このうち唐津市菜畑・二タ子1丁目の境界付近こそ、私が「少しホッとした」唐津線と呼子線の分岐点であり、工事起点となる。

西唐津~肥前相賀のルート。距離は虹ノ松原起点。【画像:国土地理院地形図、加工:草町義和】

■2番目から始まったトンネルの遺構

工事起点から先、唐津線の高架橋は徐々に高度を下げて現在の西唐津駅構内に延びている。一方、呼子線は高架橋のまま唐津線の南西側を並行して進み、西唐津駅の呼子線ホームも島式1面2線の高架ホームとなる予定だった。西唐津駅の少し手前までは、高架橋の建設用地と思しき空き地が唐津線に並行して続いていた。

工事起点から西唐津駅まで続く空き地。唐津線に並行して高架橋の建設用地が確保されている。【撮影:草町義和】
西唐津駅は島式1面2線の高架駅にする計画だった。現在の地上ホームの西側(左)に高架橋を建設する予定だったらしい。【撮影:草町義和】

西唐津駅からは既設の線路に並行しない、「純粋」な未成区間が始まる。呼子線は西唐津駅の少し先で左にカーブし、それに沿った形状の空き地もわずかに残っていたが、すぐに途切れた。この空き地の先に第一西唐津トンネルが計画されていたが、工事には着手していなかった。

西唐津駅の先に残る呼子線の建設用地。この奥に第一西唐津トンネルを建設する予定だったが未着工。実際に土木構造物が姿を現すのは第二西唐津トンネルからになる。【撮影:草町義和】

第一西唐津トンネルの先は少しだけ地上に出て、すぐに第二西唐津トンネルに入る。ここからは本格的な工事が行われていた区間となり、第二西唐津トンネルの西唐津方坑口も完成していた。現在は山麓の住宅地のなかに設けられた駐車場の奥に、コンクリートで塞がれた坑口の名残を見ることができるという。ところが、駐車場の奥は草木に覆われているだけで、坑口の名残らしきものは見えない。どうも脇の階段を上がった先に坑口があったようだが、このときは階段に気が回らなかった。

少し落胆したものの、まだ反対側の坑口がある。トンネルの北側を通る県道を進み、佐志川を渡る八幡橋の手前から南に延びる道路で桜町の集落に入って300mほど歩くと、左側にコンクリートの橋台が見えてきた。この奥に坑口があるはずだと橋台に取り付いてみたところ、草むらの中に金庫のような観音開きの鉄扉があった。

第二西唐津トンネルの呼子方は導坑のみ完成しており、坑口も人の背丈ほどしかない。このあたりが第2期区間(西唐津寄り)と第1期区間(呼子寄り)の境界で、書類上の距離はここで約0.9km加算される。【撮影:草町義和】

ただ、鉄扉は私の背丈よりも低く、鉄道用のトンネルとは思えない。第二西唐津トンネルの西側168mは導坑が掘られただけで、完全には完成していなかったという。

■バイパス道の工事がもたらした「恩恵」

第2期区間は第二西唐津トンネルを出たところで終点となり、ここから呼子までは第1期区間になる。

1970年代末期には第1期区間の路盤がほぼ完成し、第2期区間も路盤が半分以上完成した。しかし1980年(昭55)12月27日、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)が公布。輸送密度が4000人未満と想定される国鉄新線は工事が凍結されることになり、全体の想定輸送密度が3200人の呼子線も凍結の危機に瀕した。

ただ、福岡市と唐津市を直結する鉄道の一部となる虹ノ松原~唐津間に限れば、輸送密度は4000人以上を見込める。そのため、この区間は主要幹線(C線)に編入して工事が継続され、1983年(昭58)3月22日に開業した。

一方、第2期区間の唐津市菜畑・二タ子1丁目境界付近~唐津市桜町間と第1期区間は、1982年(昭57)3月に凍結。第三セクター化による工事の再開や、完成した路盤をガイドウェイバスの専用軌道に転用してバスを走らせる案も検討されたが、採算などの問題から断念されている。その後、建設用地は唐津市と旧鎮西町(現在の唐津市鎮西町)、旧呼子町に譲渡された。

第二西唐津トンネルの先は、高架橋が右に緩やかなカーブを描きながら400mほど延びていたはずだが、唐津市内の高架橋は2000年(平12)頃までに全て撤去されたようで、今は細長い空き地が延びているだけだ。ただ、空き地の両脇には、鉄道公団が使用していた「工」の字の境界標が多数残っていた。

ここから先は

6,996字 / 26画像

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?