ファッキンデイズ32

 小雨の降る代々木公園は休日にも関わらず人が少なかった。視界全体が煙っていて芝生や木々の葉っぱも息をひそめているように感じる。私は傘を差しながら公園の奥のほうを目指していた。
 斎藤さんはいるだろうか。樹に語りかけていた斎藤さんと話したのは四ヶ月ほど前だが、その後私にはさまざまな出来事が襲いかかってきた。そのとき生命の輝きを放っていた植物も今ではその内部から水分を失い、しばらくすれば黄色く染まる季節になった。
 かつて斎藤さんがいた場所に着いたが、彼の姿はなかった。できることならば会って話したいと思っていたが都合のいい偶然はなかった。樹の幹に触れると意外な柔らかさに驚かされた。うっすらと表面を覆った苔の冷たさがてのひらを通して身体に沁み込んでくる。その後、公園を一回りしてから出口に向かうことにした。
 途中、オレンジ色のパーカーのフードをかぶった少年とすれ違った。傘を差していない。正面に真っ直ぐ向けられた眼差しには強い意志が秘められていた。後ろ姿を見送ってから思い出す。あのときに会った、斎藤さんの孫だ。
 あの子がいるということは斎藤さんも近くにいるのかもしれないが、追いかけて声をかけるのはやりすぎだ。彼に背を向けて一歩進んだ。しかし、そのとき今話しかけなければならないという切迫した思いがこみ上げてきて、私は立ち止まった。振り向いて後を追った。
 呼びかけても彼は自分のことだとは思わずに進んでいく。横に並んで声をかけるとようやく顔を向けた。斎藤さんによく似た細い目に不信感がみなぎる。私は以前この公園で会ったことがある者だと説明した。そのときのことを話すと表情に驚きの色が差し、私を思い出したようだった。
「今日は一人なの?」
 彼は沈黙の後に頷いた。
「はい」
「おじいさんは?」
 聞くと再び間があった。
「祖父は亡くなりました」
 ビニール傘を雨粒が叩く音が響いた。私の脳裏に、胃のあたりを苦しそうに押さえていた斎藤さんの姿が浮かんだ。それはしばらく思い出すことのなかった祖父の姿と結びついた。
「この間葬儀をすませたところです」
「うちもだよ」
 私の言葉に彼は目を見開いた。私が祖父の話をすると彼は肩を落とした。
「僕まだ分からなくて」
「なにが分からないの?」
「自分のしたことです」
 少年はオレンジ色のパーカーのポケットから白いハンカチを取り出した。そっと開くと細長い軽石のようなものが見えた。骨だと思った。
「おじいちゃんはずっと頼んでいたんです。自分が死んだら代々木公園の土に埋めてくれって。そうすればいつかガスになって燃えることができるんだって」
 ハンカチを持つ手がかすかに震えていた。
「父や母は分かったっておじいちゃんに答えていたんですが、実際に亡くなったらそんなことができるはずもなくて焼いたんです。でも、僕おじいちゃんの言葉が頭に残っていて少しでもいいから埋めてあげたいと思って骨を持ってきました」
 彼は骨に落としていた視線を私に向けた。
「骨をもらおうとしてハンカチ越しに持ったとき、びっくりするぐらい熱くて火傷しました。その後、ポケットに入れていたんですが冷たくなるまで時間がかかりました。でも、本当にこうすることがいいのか、今でも分からなくて」
「骨壺に入れたときのこと覚えてる?」
 私は彼の目を見て言った。
「なんで骨壺ってあんなに小さいんだろうね。じいちゃんの骨を入れるとき、そのままじゃ全部入らなくて上から砕いて無理やり入れたんだ。そのときの音は耳に残ってるよ」
 ひどいことをすると思った。もう少し大きな壷にすれば砕かずにすむのではないかと。ジャッジャッという音と共に骨が砕かれていく。それを家族全員で見ている状況がたまらなかった。
「だけど、そのうちにこれでいいと思ったんだ。こうすることでじいちゃんはたしかに死んで言葉を発しない骨になったってことが、すごく伝わってきた」
 私はその骨を見て祖父には思えなかった。母も祖母もおばさんも涙を流さなかった。そう考えると骨を物のように扱うあの儀式は大切なものかもしれない。
「もう死んでしまったんだ。だったらその骨は君のものだ」
 少年はハンカチの上から骨の感触をたしかめるように握った。数秒後、はっきりと言った。
「僕はおじいちゃんが話しかけていた樹の側に埋めたいです」
 二人で樹の脇に立った。フードを外した少年は生前の斎藤さんを思い出しているのか、樹を見上げたまましばらく動かなかった。傘を畳んだ私も同じだった。葉の間をすり抜けた雨粒が私たちの顔を何度も叩いた。少年は決心したように頷くと、地面に膝をついた。
 木の根元の土を手で掘り起こしていく。雨が染み込んだ土は少年の力でも簡単にめくれていった。むっとした土の匂いが私のところまで立ち上ってくる。数分後、拳がいくつか埋まるほどの深さの穴ができた。
 ハンカチから骨を取り出して穴の底に置く。雨を吸って黒くなった土の中で小指ほどの骨が白く光っている。この骨は斎藤さんが願うようにいつかガスになることがあるのだろうか。地球に火葬されることはあるのだろうか。少年は空になったハンカチを見詰めてからパーカーのポケットにしまった。骨に向かって小さく頷き、掘り返した土を穴に被せた。すぐに骨は見えなくなった。

(つづく)

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