ファッキンデイズ34

 私は昔から冷たい風に当たると偏頭痛を起こすという体質がある。それが呼び水になって体調を崩してしまうことがあるため、秋が近付いてくると首元をカバーしたハイネックのシャツを着て冷たい風から身を守るようにしている。
 その日、私は会社で偏頭痛に悩まされていた。本来なら十八時頃帰宅できるはずだったが、すでに終電の時間が迫ろうとしている。
 隣の席では、マックの画面にかじりついている社内デザイナーが本のカバーを制作しているところだった。本というのはカバー、帯、タイトルなどで売れ行きの七割が決まるというのが編集長の持論であり、そのためカバーデザインに関しては審査が厳しくデザイナーも何度も作り直しを命じられていた。
 先程会社を出ようとしたとき、ちょっと手伝ってもらえないかなと呼び止められ画像処理ソフトのフォトショップでカバーデザインに使う画像の加工を頼まれた。私が引き受けると、デザイナーは膨大な画像データを渡してきた。画像の中のゴミを消しゴムツールで取り除いていったり、輪郭を綺麗にしていったりと作業自体は難しくないのだが、数が多いためとにかく時間がかかる。
 この日は秋口にしては暖かく私は半袖のシャツを着ていた。しかし、夜が更けると冷え込んできて私のこめかみは締め付けられるように痛み始めた。
 今取り組んでいる画像の処理が終われば帰ることができる。慣れないソフトを操ることは大変だったが、編集長は、これからはソフトの開発と普及によって編集者自らが本の版組をする時代がくるはずだと言い、編集部員たちになるべく早くソフトに慣れるようにと指示していたのでいい機会だと思った。
 もう少しで終わりそうだと気を抜いたときだった。順調に画面上を滑っていたカーソルが突然動かなくなった。しまったと思ったときは遅かった。どれだけマウスを動かしてもカーソルはぴくりともしない。マックお得意のフリーズだった。
 私はディスプレイの脇に貼り付けてある「まめに保存」という注意書きを憎々しく見詰めた。作業に没頭するあまり一時間以上保存をしていなかった。落胆の声を漏らすと、隣で作業をしているデザイナーが画面を覗き込んできた。
「やっちゃいました」
「保存は?」
「全然してません」
「あらぁ」
 呑気な口調で言った後、デザイナーは壁掛け時計に目をやった。終電に間に合うことを確認すると、優しい口調で言った。
「あとは俺がやっておくから草下君は帰りなよ」
 思わず頷きそうになったが踏みとどまった。編集長も他の編集者も締め切りが近くなると会社に泊まることが多い。私が翌朝出社し、やつれた顔に無精髭を生やしている面々を見ると、それがいかにも仕事をやり遂げた大人の姿に感じられるのだった。私はこの会社で一度も徹夜をしたことがなかった。
「まだ仕事残ってるじゃないですか」
「それはそうだけど、なんとかなるでしょ」
 デザイナーは煙草に火をつけて一服した。
 頭の中でスケジュールを思い起こしたが、明日の土曜はなんの予定もなかった。さゆと加藤は群馬県のスキー場で行われるレイブに今夜から参加しているが、私は仕事が忙しいと断っていた。私はマックの電源を長押しして強制終了させ、すぐに立ち上げた。景気のいいジャーンという起動音が響く。デザイナーがオッという顔で私を見た。
「自分の仕事が終わるまで帰りたくないです。最後までやらせてください」
 デザイナーはまんざらでもなさそうに苦笑いをした。
「バイトを泊まらせたら編集長に叱られちゃうなぁ」
 カバーデザインが完成したのは明け方になってからだった。そのデザインは私の目から見ても非常に完成度が高く、書店に並べば他の書籍の中でひときわ目立ちそうだった。
「せっかく手伝ってくれたのに、ごめんね」
 私が一晩中かけて処理した画像は使われなかった。デザイナーはなんとか使おうと苦心してくれたのだが、その画像が入ることで調和が乱れてしまい組み込むことができなかった。
「気にしないでくださいよ、ないほうがいいデザインですから」
 私はそれなりの充実感を覚えていたが、そう言った後、ふいに胸の中が空洞になった気がした。全身が溜め息になってしまったようだった。疲労によるものなのか、徹夜で感覚がおかしくなったのか、画面を見続けていたことでフラッシュバックが起こっているのか、原因は分からなかったが、私はこれはまずいぞと感じた。
 デザイナーはまだ微調整があるから仮眠をすると言ってパイプ椅子を並べた簡易ベッドに横になった。これ以上、私にできることはなかったので家に帰ることにした。
 駅までの道を歩きながら、不穏な胸騒ぎにとらわれていた。トミーもさゆも加藤もバラバラになった、マナブとも揉めた、仕事もうまくいかない、将来を考えると不安になる、貯金もほとんどなくなった、働いても働いても金が減っていく、これで東京でやっていくことができるだろうか、それにと思って胸に手を当てた。今の自分の感覚は正常なのか。
 電車をホームで待つ間、空を眺めていた。分厚い雲が一面を覆い尽くしている。雲にはところどころに太く盛り上がった部分があって、魚の下腹のように見えた。茶色く濁った巨大な雲は凄まじい速さで流れていき、そういえば大型の台風が近づいているというニュースを思い出した。東京を直撃する可能性があるから注意するようにと女性アナウンサーが言っていた。
 かすむ視界の中で雲の隙間からしながわ水族館のアロワナが顔を見せた気がした。私が目を見開くと、突然、激しい雨が銃弾のように降り注いだ。駅舎、線路、地面を容赦なく雨粒が叩き、ホームにまで吹き込んでくる。
 そのとき、電車の到着を告げるアナウンスが流れ、身体をくねらせながら電車がやってくるのが見えた。ホームにいるまばらな人たちが乗車位置に並んだ。私はその動きについていくことができず、世間と自分との速度のズレを感じた。目の前を電車が通り過ぎ、私の前髪を風が跳ね上げた。
 電車が停車し、ドアが開いた。ドアが閉じて電車は走り去っていった。私はホームに残されていた。電車がいなくなって目の前に開いていたのは水槽の中の世界だった。これまでとは様子が違う。水槽の中にいるにも関わらず息が詰まる感覚がない。何事かと思い、おそらく頭の周りだけではなく世界すべてが水槽になってしまったのだと分かった。
 私はホームを降りて改札を出て土砂降りの中を歩き始めた。一歩一歩が浮遊しているようで身体に重みを感じない。水中を泳いでいる気がした。爽快だった。これならどこにでも行くことができる。私は今まで勘違いをしていた。私は水槽を遠ざけようとしていたが、水槽こそ私の生きる場所だったのかもしれない。
 住宅街を向け大きな通りに出ると黄色いライトで水中を切り裂きながら車が飛び交っている。クラクションが近くで鳴って風圧でよろけそうになる。タイヤが水を跳ね上げて横からも上からもずぶ濡れになる。笑いが漏れた。笑うのは怖かったが、一度笑ったら止まらなくなった。
 ふいに視界が開けると目の前に橋がかかっていた。橋の中ほどから見下ろすとチョコレート色の水が溢れそうになっている。いくつもの流れが絡み合っては反発し、私は吸いこまれそうになる。そのとき、そのうねりの中にアロワナの背中が見えた。私が目を凝らすと、一匹のアロワナが顔を出し、お前も来いよと誘ってきた。私は笑いながら答えた。中に入って大丈夫か。アロワナは生意気なヒゲを揺らしながら言った。入ってみればたいしたことがないさ。私は橋の欄干に手を掛けた。

(つづく)

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