ファッキンデイズ35

 帰宅した私は便器の上でクスリ箱をひっくり返した。レバーをひねるとパケは飲み込まれていったがプラスティックのシートに包まれていた錠剤は浮かび上がった。便器に手を入れ錠剤を拾い、ティッシュで包んで再び流す。今度は飲み込まれていった。
 水のないこの空間は居心地が悪くて仕方がない。早くあの橋のところに戻りたい。トイレから飛び出してマリファナの株の入ったビニール袋をつかんだ。水槽の中に入るにはこれは捨てなければならない。家族の迷惑にはなってはならない。部屋を後にしようとしたがまだなにか引っかかるものがあった。
 戸棚や引き出しを開けていった。売人の電話番号、トリップ中のメモ、友達の写真、細かく破ってトイレに流した。他に残してはいけないものはないかと押し入れの中の小物入れの引き出しを開けたとき、私は動きを止めた。
 祖父の形見の革の財布があった。おそるおそる手を伸ばすと、皮の質感が手に馴染んだ。中を開いた。札入れには何枚かの紙幣が入っていた。今の自分にはいらないものだと思いながらぼんやりと数えた。
 一万円札の下からピンク色の紙が現れた。紫式部らしき女性が描かれている図書券だった。読書家だったじいちゃんらしいと思ったとき、図書券の左上に目が吸い寄せられた。そこには黄色い付箋が貼り付けられていた。
「シンヤからのプレゼント」
 祖父の文字を見て胸に激痛が走った。じいちゃんは敬老の日の贈り物を使わずにずっとしまっていた。苦しくなって身体を丸めた。雨に打たれている間、曖昧だった身体の輪郭が痛みによって明確になっていく。いや、でも、もういいじゃないか。外に出ればすべてが終わるんだ。私は窓を開けた。
 激しい風が吹き込んできて私の全身を雨音が包んだ。遠くの空で何本もの稲光が走っているのが見えた。もう一度あの橋のところまで行けばこの生活は終わる。私は外の世界に引き寄せられた。ドアから飛び出そうとしたとき、窓の外で黄色い光が輝いた。思わず足を止めると、次の瞬間、轟音と共にアパートが大きく震えた。
 落雷の衝撃が去ると、部屋は現実感を取り戻していた。壁、天井、エアコン、床、冷蔵庫、電子レンジ、ソファベッド、じいちゃんの財布、ひとつひとつを眺めた。私は窓の外に再び目をやった。そこにはあるのは自然の暴力だ。すべてを飲み込み攪拌するあの川に身を投じることは正気の沙汰ではない。雲の間を走る稲光は水槽の亀裂だ。空からは膨大な水が降り注いでいる。水槽が割れたのだと思った。
 熱いシャワーを浴びて一息つくと、加藤から電話がかかってきた。
「シンちゃん、東京はどんな感じ?」
 窓枠が風でガタついている。
「ヤバいよ、そっちは?」
「レイブどころじゃないよ。今もテントの中でテントが飛ばされないようにみんなで足踏ん張ってるんだ」
「さゆは?」
 ちょっと代わると言ってさゆが出た。
「シンちゃーん、来ないの?」
「テントを守るためにそんなところまで行かないよ」
「ひどっ、でも、こんなのなかなか経験できないし、結構楽しいよ」
「妙に前向きじゃん」
「うん、私、基本的に明るい子だから」
 さゆがそこまで言ったとき、うわっと声を上げ会話が途切れた。どうしたと呼びかけても返事がない。心配になるが数秒後、さゆの乾いた笑いが聞こえた。
「危なかったー。今テントかなり持っていかれそうになっちゃった」
「おい、大丈夫かよ」
 なんとかなるでしょと話すさゆの後ろで加藤のそろそろ電話切ってテント守れよという声が聞こえた。状況は思った以上に切迫しているようだ。加藤のことなど気にしていないように、さゆはあっけらかんとした口調で聞いた。
「シンちゃんのほうはどうなの? なんか吹っ切れた感じがするんだけど」
「一段落したって感じかな」
「どゆこと?」
「帰ったら話すよ」
 再び加藤がさゆに呼びかけている。さゆは、戦場に戻りまーすと言って電話を切った。

(明日、最終話!)

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