ファッキンデイズ27

 週五日、朝十時から十八時までのバイト生活が始まった。まず私に与えられたのは校正という仕事だった。原稿を読んで、誤字や脱字、文章や内容におかしなところがないかなどをチェックするのだ。
 はじめは丹念に原稿を読めばいいのだろうという認識だったが、痩せぎすで眼鏡をかけた編集長に叱責された。まったく間違いが見付かっていないというのだ。たしかに私はいくつも誤字や脱字を見落としていた。
「校正は読むんじゃない。文字を見るんだよ」
 文章は流れを追いながら読むと間違いを見落としてしまう。そのため一字一句を目を凝らしてつぶしていくことが重要であるという。特別な技術を習った気がして嬉しくなった。
 ドラッグは完全にはやめられなかったが頻度は激減していった。翌日に仕事があるとなれば明け方まで遊ぶことはできず、仲間も遠慮をすることになる。金曜や土曜の夜は依然溜まり場になることも多かったが自然にドラッグとの距離が広がっていった。
 使用頻度が減ったことでケミカル系ドラッグのフラッシュバックに悩まされることがあった。校正の仕事以外にも手書き原稿の入力などを任されることがあり、パソコンに何時間も向き合うことになる。はじめの頃は集中しているのだが疲労が溜まってきたり気が削がれることがあると、三半規管が揺れるような気持ち悪さを覚えることがあった。
 また校正の仕事で調べものをしてサイケデリックな色調なページを見ているときなどは画面が渦巻き、その中に飲み込まれていきそうな感覚を覚えることもあった。飲み物を買ってきますと編集長に言って会社を出てコンビニに向かいながら気持ちを鎮めようとするが、一度覚醒した感覚は簡単には去ってくれない。脂汗を滲ませながら再びパソコンの前に座ることになった。
 生活が変わったこと以上にドラッグと離れていった大きな理由が金だった。社員数五名の出版社の経営状態はあまり良好ではないようで、時給は七百五十円と安かった。昼休みの一時間休憩を除くと一日の労働時間は七時間、日給換算五千二百五十円。タマなら一錠、紙なら二枚、コカインなら太いツーラインぐらいにしかならない。
 バイトを始めたことで親からの仕送りはストップした。しばらくは家賃を振り込んでくれるが、その後は自分で捻出しなければならない。大丈夫? と聞く母の問いに大丈夫だよと答えたのだが、あとあとになって後悔した。
 親が借りてくれた四谷のアパートは管理費込みで家賃が七万五千円もする。その他に食費や光熱費などを考えると時給七百五十円のバイトでは生計を立てることができない。親の仕送りで生活をしていたときは銀行口座にある三十万円が頼もしく思えたが、自分で稼ぐとなるとその金額では心許なかった。
 勤め始めて半月後に受け取ったバイト代は五万千円だった。倍働いたとしても月に十万円だ。これではいくら働いても金が減っていくことになる。クラブ遊びやドラッグに回せる金が減っていくのは当然のことだった。
 九月下旬になると肌寒い日が増え始めた。単行本の入稿が迫っていることもあり、アルバイトの私も残業をして校正の仕事に取り組んでいた。定時の十八時を大幅に過ぎ、二十二時過ぎになっても終わらなかった。バイトの私を残して社員は一人、また一人と帰っていき、会社には私と編集長だけが残った。
「ここも見落としてる。集中してないでしょ」
 数日前からキャンプインと称した会社への泊まり込みを慣行している編集長は私の見落としを見付けると厳しい口調で言った。顎の回りを覆った無精髭が苛立ちを強調している。編集長は原稿を私に突き返すと足早に自分の机に戻っていった。
「全然見ていない」「ここも」
 編集長が書き込んだ赤い文字が胸をえぐる。校正を再開し三十分ほどが経つと昨日も徹夜だったという編集長は少し眠りますと独り言のように告げ、パイプ椅子を三つ並べた簡易ベッドに横になった。目には遮光用のタオルが乗せられている。
「終わったら机の上に置いておいて。遅くまでお疲れ様」
 そう言ったかと思うとすぐにいびきをかき始めた。二十四時近くになって校正を終え、編集長の机の上に置き、眠ったままの編集長にお疲れ様ですと声をかけ会社を出た。終電間際にも関わらず編集長の労いの一言で私の足取りは軽かった。
 立ち寄ったコンビニで雑誌の立ち読みをし、アパート前に着いたのは一時過ぎだった。明日の仕事のことを考えてシャワーを浴びてすぐに寝ようとドアを開ける。電気をつけると部屋の中央に置かれていたものに目を疑った。
 白いプラスティックの鉢植えから一・五メートルほどの丈のマリファナが伸びている。部屋には鼻をつく青臭い匂いが充満していて開花が近いことを示していた。マリファナは全部で五株あった。これがトミーの部屋から運ばれてきたものであることは一目瞭然だった。先日トミーはそろそろ収穫が近いということを電話口で熱心に語っていた。そのマリファナがなぜここにあるのか。理解不能だった。
 混乱の後、猛烈な疲労感が身体を包んだ。忙しい時期に厄介事に巻き込まれたことに対し、割り切れない感情が込み上げてくる。私にはトミーが自分の生活を邪魔しているように思えてならなかった。マリファナの株を見下ろしながらトミーに電話をかける。すぐに電話に出たトミーは慌てた様子で言った。
「てか、シンちゃん、この電話マズいから一度切るね」
 電話は切れた。尋常ではない慌てぶりに警察にマークされているのではないかと胸騒ぎがする。不安に苛まれていると数分後に電話が鳴った。ディスプレイには公衆電話という文字が表示されている。
「シンちゃん、ごめん、部屋の件だよね」
「うん、なんかあったの?」
 それがさとトミーは声色を落とした。
「うち、今、ヤバくて、隣の部屋に刑事が張り付いてるんだ」
「刑事が?」
「なんか雰囲気がおかしいと思っていたんだけど、たまに壁をノックする音が聞こえるし、外に人が立ってることあるし完全にハメられてるんだよ」
「隣の部屋って?」
「昔住んでた人最近見なくておかしいなって思ってたんだけど、友達が見たっていうんだ、ガタイのいい男何人かが入っていくのを。間違いなく刑事だよね、それ」
 私の頭に以前トミーが部屋に連れてきたのぞみの同級生の姿がちらついた。ラメ入りのシャツを着ていた男はシャブを炙る仕草をしていた。嫌な予感が脳裏をよぎる。
 覚醒剤をやりすぎると自分が警察にマークされているのではないかと怯えたり、常に誰かに見張られていると感じる追跡妄想が生じることがある。勢いに押されて話を飲み込んでしまったが、隣の部屋に刑事が張り込んでいるというのは飛躍した発想だ。トミーは私の心中を察することもなく話を続ける。
「だから、このままじゃ、みんなヤバイし、グロワーの摘発って収穫直前にやるって聞いたことあったから、その前に移動させればいいって話になって、ちょうど今夜、まわりに見張りがいなかったから、のぞみに頼んで、のぞみのダチに車持ってきてもらって、みんなで担いで車に積んで、シンちゃんのとこ運ばせてもらったんだ」
 夜間に大きな荷物を運び出しているほうが怪しいが、トミーやのぞみを始め、周りの連中は警察にマークされているということで頭がいっぱいになり視野狭窄に陥っている。私は間違いないと判断した。だが口を挟もうとしてもトミーは熱っぽく無事にマリファナを運び出せたことを語り続け、私の話に耳を傾けようとしない。
「トミー、聞けよ。そのほうがヤバイでしょ。マークされているとしたら、そんなとこ見られたら一発だろ」
「それは平気。全員でしっかり観察したから。誰にも見られてなかったよ」
 トミーは口の中が乾いて仕方がないのか無理に唾を飲み込むようにしている。また、会話が突然止まり布がこすれる音が聞こえることがあり、周囲を見回し刑事の姿がないかを確認しているのではないかと思った。
「こんなの持ってこられて俺が迷惑なんだけど」
「シンちゃん、ごめん。でも、シンちゃんしか頼れる人がいなかったんだよ」
「いきなり運び込まれてお前だけじゃなくて俺もヤバイよね」
 マリファナの株を持った男たちが私の部屋を目指している光景は最悪だった。アパートの住人に会わなかったかと聞くと、トミーは会わなかったと答え、シンちゃんしかいなかったんだと同じことを言った。
「で、これ、どうすんの?」
 できることなら一刻も早く運び出してほしい。
「でも、隣の部屋に刑事いるし」
 いないから、とは言わなかった。
「だったら川にでも捨てればいいんだよ。とにかく俺の部屋は勘弁してくれよ」
 露骨に嫌気を滲ませるとトミーは口をつぐんだ。沈黙の後、不貞腐れたような声が聞こえた。
「そこまで言うなら言わせてもらうけど、俺たち、シンちゃんが困ってるとき、いつだって助けただろ。今回、俺たちが困ってるんだからそれを助けるのが友達だろ、違うのか?」
 その言い草に呆気に取られ、すぐに怒りが込み上げてきた。
「俺のこと助けてくれたっけ。この間のパルプのときだってネタをせびるだけだったじゃないか。それに人の部屋にマリファナを運び込むなんて助けるとかっていう次元じゃないだろ」
「だったら俺とのぞみはどうすりゃいいんだよ、シンちゃん、俺たちを見捨てんのかよ」
「そんなこと言ってないだろ、ただ俺はお前のやってることが迷惑だって言ってるんだよ」
「友達なんだから相手のことを助けるのは当然だろ」
 ヒートアップしそうになる自分を押さえ込んだ。このままやり合っても解決には向かわない。私はトミーが落ち着くまで話をさせることにした。適度に相槌を打ちながら聞いていると冷静になり始めたのか、トミーは謝罪を口にするようになった。私は今すぐに取りにきてほしいと言ったが、しばらく預かってほしいという懇願が返ってくる。
 私はマリファナの株を見て溜め息をついた。とんだ荷物に違いはないが、もう一度これを抱えてトミーの部屋に運ぶことのほうが危ないかもしれない。要求をしぶしぶ受け入れ、タイミングを見計らってトミーの部屋に戻すことになった。
「シンちゃん、ありがとう。やっぱ友達ってありがたいな」
 その後、さゆと加藤に事情を話し、今のトミーには注意したほうがいいと告げた。さゆも加藤もトミーのことを心配していた。二人はなんでも協力すると言うが、私はまずは自分でやってみると答えた。ただでさえトミーは混乱状態にある。シャブをやっていることさえ私たちには知られたくないだろう。
 マリファナの株の前であぐらを組んでトミーをシャブの世界から連れ戻さなければならないと感じた。トミーはおそらくのぞみが持ってきたシャブをやり、シャブセックスの虜になったのだろう。私はそこまでの経験はないが、マナブの先輩からもらった覚醒剤を使ってオナニーをしたことはある。
 体温を下げる作用があるのか性器は芯に柔らかさを残していたが、むずむずとする快感に浸りながら三時間近くこすり続けた。すぐに射精してしまうことを勿体なく感じたのだ。摩擦しすぎたことで性器が赤く腫れ始めて、ようやく絶頂に向かったのだが、射精の瞬間、性器の中心を稲妻が駆けるような快感が走った。しばらく放心状態で動くことができないほどの快感だった。私が覚醒剤を自分から遠ざけたのはそれほど強い快感にハマることを恐ろしく感じたからかもしれない。
 自慰行為ですらこうなのだからセックスは未知の領域だ。トミーを連れ戻せるだろうかという不安が膨らんでくる。デジタル時計に目をやると午前二時十三分を示していた。明日も今日と同じぐらい忙しい一日になる。マリファナの株を恨めしい気持ちで見てからシャワーを浴びるために立ち上がった。

(つづく)

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