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Say Nothing Board 無言板[2]

街のなかにひっそりとたたずむ、文字の消えた白い看板たち。伝達内容を喪失した役立たずの板も、見方を変えれば、現代絵画のように大きな時代精神や小さな無意識までをも映す鏡になる。ロードサイドの芸術談義は、路上に始まり禅に向かう──"言うことなし"の無の芸術とは?

ブラックフライデーと無買日

 文字の読めなくなった看板を、物言わぬ板=Say nothing board(無言板)と名付ける際のヒントになったものがある。Buy noting day(無買日)だ。

 無買日とは、1992年カナダの広告批評雑誌『アドバスターズ』の特集記事から生まれたインディーな(勝手な)記念日で、感謝祭(11月の最終週の木曜日)の翌日(か翌々日)に、無駄な買い物を控えて心を豊かに過ごそうというライフスタイルのキャンペーンの日だ。

セイナッシング・ストア Tokyo, 2019

 ちなみに、この日は北米ではブラック・フライデーと呼ばれる年末商戦初日にあたり、さまざまなメディア広告が消費者の購買意欲を掻き立てるために猛攻勢を仕掛けてくる。それに踊らされて衝動買いをしないために、日頃の消費行動や消費社会について冷静に見つめ直そうという呼びかけから生まれたのが無買日だ。

 一見ネガティブなキャンペーンのように思われるかもしれないが、無買日は不買運動ではない。Don’t buy 買ってはいけないと禁止するのではなく、Buy nothing 無を買えと促す。not(否)ではなく nothing(無)を使った否定表現は、どこか禅問答や頓智を思わせて面白い。はたして無とはどんな姿で、どこに売っているのだろう?

無言堂商店 Fukushima, 2017

「無はリアルだ」とジョン・レノンは歌った

 ジョン・レノンがザ・ビートルズのサイケデリック時代に書いた「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の歌詞のなかに Nothing is real というフレーズがある。文意としては「リアルなものは何もない」という否定文だが、あえて nothing を主語にした肯定文としてとらえれば「無こそがリアルである」といっているようにも受け取れる。

 もうひとつ、ジョン・レノンが歌う「アクロス・ザ・ユニヴァーズ」のなかでは  Nothing’s gonna change my world というフレーズが何度もリフレインされる(そして、お経みたいにリスナーの頭の中に残る)。ここでも nothing を同様に深読みするなら、「何も私の世界を変えられない」という意味の裏側には「無が私の世界を変えるだろう」という別の意味が見つけられる。無のとらえかた次第で、それらは意味を反転する。なんだか禅の公案のようである。

空の色に似ている Kawasaki, 2019

 たしかに、無買日はひとつの禅だ。オーストリア出身で京都に住むガブリエレ・ハードが自ら赤いコスチュームと白いひげをつけて繁華街で静かに座禅を組んだパフォーマンスから生まれたキャラクター「禅タクロース」は、いつしか無買日のマスコット・キャラクターになった。忙しそうにそりで飛び回り大きな声で笑うサンタと違い、ゼンタは目を閉じてじっとしている。何もくれない代わりに、何かを信じなさいとも言わず、ただおのれを見つめて考えることを無言で説いている。

 Say nothing board「無言板」もまたひとつの禅である。「解答はない。なぜなら問題がないからだ」と言ったのはマルセル・デュシャンだったが、無言板にはそれと似たナンセンス(無意味)の禅がある。

洗車禁止の文字が洗い流される Tokyo, 2019

レディメイドの無言板

 まちの各所に掛けられた無の看板に気がつけば、日頃歩き慣れた街路も、初めて訪れた街並も、いずこも展覧会場に変わる。

 マルセル・デュシャンは、ありふれた道具や工業製品をオブジェとして、レディメイド(既製品)と名付けて発表した。もっとも有名なのは、男性用小便器に「泉」という題名をつけた作品だろう。

 便器がなぜアートになるのかわからないと匙を投げる人もいるだろうが、「泉」は裸の王様のようなナンセンスとして素直に笑えばいい。デュシャンにはほかにも「自転車の車輪」や「瓶乾燥器」などどこにもある日用品を使ったオブジェがあるが、それらはファウンド・オブジェ(見出された物体の意)とも呼ばれる一種の見立ての芸術だ。日本でいえば、石や盆栽を山や自然に見立てて床の間に飾る趣味にも通じる。「泉」にはそんな風流もある。

電話台 Tokyo, 2018

 街角で見出される無の看板も、一種のファウンド・オブジェといえるだろう。それらを、作り人のいない(無人の)、何も書かれていない(無地で)、役に立たない(無用で)、主題なき(無題の)作品と見立てて向かい合うことは、美術鑑賞や絵画そのものの存在理由を問う頭の体操でもある。

アンフラマンスな無言板

 無言板を前にデュシャンについて考えていたら、アンフラマンスのことを思い出した。アンフラマンスとは聞きなれない言葉だろうが、それもそのはず、これはデュシャンが自身の芸術観を語るのに使った造語だ。極薄の皮膜を意味するこの造語は、世界中の研究者や美術評論家がさまざまな分析や解釈を試みているが、それでもとらえようがないところがアンフラマンスそのもののような気がする。

 たとえるなら、アンフラマンスとは私たちが何かに対して抱くイメージのようなもので、それは映画のスクリーンに投影されたスターのように人びとの目には見えているが実体はない。銀幕はただ何もない平面に過ぎず、そこに映るものも光と陰からなる幻影でしかない。だが、その表面には確かに俳優が、物理的にはまったく厚みのない薄い皮膜のような姿で──つまりはアンフラマンスとして──存在している。

自動車のプロフィール Tokyo, 2019

 デュシャンは映像の世紀や情報メディア時代の人の感性をいち早く予見していた。その後アンディ・ウォーホルがシルクスクリーン印刷で大量に複製したマリリン・モンローの肖像も、21世紀のいま二次元のアニメ・キャラクターに向けられる萌えの感情も、どうやらいまだデュシャンが立てたアンフラマンスの問題系のなかにある。

 ここでふたたび無言板に目を向けてみれば、塗料の剥げた白い板は上映終了後のスクリーンのような存在で、そこから消えてしまった運動映像や薄っぺらな文字の皮膜こそが「映画」や「看板」と呼ばれるものであったことに気づかされるのである。

自動車のポートレート Tokyo, 2018


 筆者は2018年12月から毎日一枚ずつ無言板の写真をInstagramにアップロードしています。Instagramでハッシュタグ # saynothingboard # 無言板 を検索すれば150枚以上(2019年5月現在)のストックを閲覧できます。

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