見出し画像

「雑」であること──雑誌の多様性

 「ていねいにやってください。雑にやってはいけません」。

 雑はていねいの反対だと、子どもの頃に刷り込まれたせいか、ぼくたちは雑を悪だと思っている。乱雑や粗雑はだらしがなくいい加減で、雑多や雑然はまとまりがなく扱いづらいので整理を必要とし、混雑や煩雑は避けるべきだと教えられてきた。「雑」は秩序や合理性に反するものとして、どうやらかなり嫌われている。雑音は耳障りで、雑事は慌ただしく、雑学は余計な知識にすぎない。だが、本当にそうなのだろうか。

 「雑」の字は元来旧字で「雜」と書き、「衣」が「集」まったパッチワークのような状態を意味する。英語でいえばミクスチャー(mixture 混合物)や、ヴァラエティー(variety 多様性)といった言葉に近いそのイメージは、意外にも日本の食卓に昔からある雑煮雑炊に重なる。ここでの「雑」は、いろいろなものが入り交じっていて盛り沢山という意味だ。

 雑木林には、高木や低木、野草やシダやコケ、さまざまな植物が生い茂る。もともとは林業の役に立たない手つかずの森林として人びとの関心の外にあったものが、近年は里山と同様に新たな視点で再発見されている。

 先日、家族に庭の手入れをしてもらったら、小さな野草まできれいに刈り取られてしまったと嘆く知人の短文を目にした。一般的な園芸愛好家というよりはアロマテラピーに関心をもつ自然愛好家のその人は、庭の片隅に自生してくる野草を植物図鑑で調べ、何年にもわたってその群生を楽しんでいたのだが、草刈り鎌を手にした善意の家族にとっては、植木や花壇の花以外の植物はどれも名もなき雑草にしか映らなかったのだろう。そこでの雑草は、釣り人にとっての雑魚と同じ扱いを受けた。

 雑多なものをとるに足らない無価値なものと切り捨てるか、さまざまな魅力をもった価値の集合と受けとめるかは人それぞれだが、ぼくは「雑」のもつ小さな魅力に目を向けられる人でありたいと思うし、善い意味で、自分が「雑」でありたいとも思う。

 ぼくの好きな「雑」は、たとえば雑誌であり、雑貨だ。雑誌はどこのページから読んでも良く、主要でないこまごまとした記事のひとつひとつに面白さがある。雑貨は衣食住の生活全般にわたる日用品の数かずだが、生活必需品や生活消耗品にすぎないそれらを、ホビー(道楽)に傾けて愛用したり収集したりすることに面白さや楽しさが溢れている。知らなくてもいいことや持っていなくてもいいものはけっして無駄ではない。無用なものごとがいっさい排除された世界は、味気なく息苦しい。それらはヴァラエティーに富み、むしろ余分に在ることで、人生や生活にテイストや余裕といった豊かさを与えてくれる。

 本と日用品に関していうと、「雑」のもつ多様性に対して、「百」の字が意味する網羅性がある。百科事典はすべての知識を網羅した書物であり、百貨店はすべての商品を網羅的に揃えた小売店であることは説明するまでもないが、奇しくも両者は21世紀になってから大きな転換を余儀なくされることになった。20世紀に一般家庭の書棚にも知のステータスとして並べられていた上製本の百科事典セットはかさばるばかりか、古書店でも値のつかないごみとして廃棄処分され、人びとからはインターネット百科事典ウィキペディアが支持されている(その内容の是非については別の話になるのでここでは論じない)。また、20世紀の消費文化を全面的に支えてきた百貨店はその伝統がいつしか時代のニーズに合わなくなり、代わりに家電専門量販店やファストファッションの大型店舗が大衆の消費の欲望に応えている。「百科」と「百貨」がしだいに過去のものになってしまったのは、「百」の字のもつ万能性が、数量的なイメージとして現代人には物足りないせいもある。

 この十年、紙媒体の雑誌の売り上げ不振や休刊のニュースがあとを絶たないが、そのいっぽうでジン(zine)やリトル・プレスと呼ばれる個人誌、同人誌の出版が新たな注目を集めているのも事実だ。雑誌はマスからインディーズへ、ビジネスから趣味や表現のためのメディアへと軸足を移そうとしている。数かずの出版社が華々しい広告に飾られた雑誌を膨大な部数で発行していたのは、20世紀後半のごく限られた期間にすぎない。雑誌のゴールデン・エイジ(黄金時代)は終わったが、これからの雑誌は再びもとの雑草のような雑誌へと回帰していく。考えてみるとよい。無名の小さな雑誌が、無数に生い茂った野原は、多様な「雑」たちの楽園とはいえないか。それは自然科学でいえば生物多様性という現代的な課題にそのまま重なる。

 21世紀的な「雑」は、ほかに自動車エンジンのハイブリッド(雑種)や情報通信メディアのなかのチャット(雑談)にも見られる。純粋でなく掛け合わせによって生まれる力や、とりとめなく奔放な発話によって広がる関係性。とくにインターネットの社交場においてわれわれが記しているテキストは、日常の雑感(ツイート)であったり、いまぼくがここに記している雑記(ノート)であったりするというわけだ。


写真=パラモデル《未完の書物Pと、そこに溢れるパラテキストのための投影計画》2014 、東京都現代美術館「MOTアニュアル2014フラグメント──未完のはじまり」展示風景、筆者撮影


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?