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他では絶対教われない「無自覚な悪態」を取り去る方法

「それは、絶対に絶対に、してはいけないことです」
先生にそこまで強く制されたこと、これまであっただろうか。制されたのではなく諭された、諭していただいたという方が、いまとなればしっくりくる。
頑なに動こうとしない、認めようとしないわたしに対し、久瑠あさ美先生という人は、深夜遅くまで何時間もかけて、大切なことを、誰も教えてくれないことを、ひたすらに伝え続けてくれていた。

しかし、わたしはそれでも、まだごねていた。自分を曲げたくない、自分は間違っていないと意固地な態度を止められなかった。
あのとき、先生はどう感じていたんだろうか。
何を想っていたんだろうか──。

今日は、わたしの中にあるとんでもない「悪態」が、どんなに危険なものであったか。
その「悪態」に対して、久瑠先生が真っ向から向き合って伝えてくださった言葉と想いから、わたしが学んだこと、気づいたことを皆さんにシェアさせていただきたいと思います。


それは、先生とわたし、もう1人の方の、3人のミーティング中に起きました。
先生から事前に指示を頂いていたことに対し、私がその内のいくつかをやっていなかったという事実が発覚したときのことです。

「ここ、このように指示を出していたはずですが、伝えていただいていないということでしょうか」と、先生はわたしにまず、確認して下さいました。  

事実、わたしはそれを遂行していませんでしたから、完全にわたしに非があるにも関わらず、どうしてかその時は、素直に「すいません、そこ、やっていませんでした」と言えなかったのです。

いや、言えなかったのではなく、「絶対そんなこと、言いたくない」と思っていました。
「やっていないのか、どうか」とただ確認してもらっているのを、「責められている」「咎められている」と自分勝手に捉えたのかもしれません。
その瞬間からもうすでに「ムッ」としており、ぶっきらぼうに「はい、やってません(けど、なにか?)」という、とんでもない態度で吐き捨てるように返事をしました。

一度そのモードになってしまうと、そのあと何を言われても、どんな話題になっても、文句や不平不満がうずまき、ドス黒い感情がとめどなく自分の中から湧いて出てきます。

「ここで爆発してはいけない」という警笛が頭の中でこだまして、なんとか口をつぐんでいるけれど(一度その感情を口にしたらもう止まれない気がしていた)、2時間のミーティング中、ずっとそんな調子で、今にも檻を壊して暴れ出しそうな獰猛な猛獣と化していました。

今から思えば、本当にどうでもいいことにしがみついていたのだと、あの時の自分から距離ができたことで、冷静に言葉にすることができますが、
まさに「その瞬間」というのは、心が鎖でがんじがらめにされたように動きません。まるで南京錠で固く閉ざしたかのように、何人(なんぴと)たりとも踏み込ませないぞという凍てついた世界です。

動きたいけれど動けないというような、可愛いものではありません。むしろ、「絶対に動いてたまるか!」「折れてたまるか!」と、全身全霊で、命懸けの抵抗をしていたように思います。

命をかけてでも、自分を主張したかった。これを先生は「業(ごう)」と言葉にされていました。

言い訳は、いくらでも浮かんできます。
あのときわたしは寝不足だった、疲れが溜まっていた、体調が悪かった、不安なことが重なっていた・・。普段の自分なら、あんなことにならない。
「あ!すみません、そこ、やっていませんでした!」なんてむしろスッと言えていたのではないか・・。
いろんなことが重なったタイミングだったから、いつもと違う自分が出てきたんです!と・・。

でも──
私は、本当は知ってる。そんな自分がこれまでも、ふとしたときに顔を出していたこと。それによって、大切なもの、人、空間を、踏み躙ってしまった経験。その自分に自分が後悔したり、傷つき、失望してきたこと・・・。
でも、それを認めたくない。気づかないフリをしておきたいと封印したがっていた自分も、確かにいたこと。


・・・暗黒のミーティングが終わり、次の日。

先生と別件で打ち合わせがあり、ズームミーティングをすることになっていました。少し会話があったあと、先生が昨日の話を切り出しました。
わたしは「・・やっぱり、きた!」と、身構えました。
内心、何か言われるだろうなと予測していたので、その日の朝から何度もイメージしていた”何事もなかったかのように笑顔で受け止める”を実行しようとしたのですが、まったく効果がありません。
また昨日と同じ感情が、あっという間に全身を支配していきます。

そんなわたしに、先生はこう言いました。

「昨日の、あの態度は良くなかったです。
わたしが出す指示というのは、わたし自身がそうして欲しいから伝えているのではなくて、その先の三手先、四手先に起こそうとする何かを創り出すため、目にはみえない形もないけれど閃光のように生まれる何かで、一段上にある”感性の次元”から降りてきているものなんです。共に創ろうとしている世界観を表現する上で、それは絶対的なものです。
そしてあの指示は、あなたがやらないことで関わっているチームメンバーにとって物理次元において二度手間になってしまうだけでなく、マインド次元においては無自覚な痛手となりかねない、とても大切なことだったんですよ。

でも、わたしが今伝えているのは、あなたがミスしたこと、やらなかったこと自体について言っているのではありません。ミスは、人間であれば誰でもやるんです。
そのミスについて言及しているのではなくて、素直に「抜けていました」「忘れていました」「分かりませんでした」と伝えてくれていれば、それで済んだことだったんですよ、ということです。

でもあなたは、あの時間ずっと、怒っていましたよね。切り替える時間は十分にあったはずです。途中、助け舟を出したときでさえ・・。
あれをやってしまうと、普通は、次から呼ばれなくなるんです。クリエイティブな場には相応しくない人材だと判断される、だから声がかからなくなります。それで終わりです。

だからあれは、絶対にやってはダメ。
あれは悪態です。そこに対してわたしは入り込みたいと思わないですし、毎回何かある度にそこに対応していたら、たくさんの時間をそのために費やすことになります。
とても大切なもの、創ろうとしている神聖な世界観に対して、あのあなたを持ち出されるとなると、一緒にやれなくなってしまいます。
あなたが噛み付くことで、その世界観自体の価値を下げることになってしまう。引きずり下ろそうとしている人と、プロジェクトはやれないんです。

素直な人、素直な在り方ができる人は、そういうことはしません。
例えば、優秀な秘書とはどんな人かというと、社長の言葉に対して謙虚に受け止め、「申し訳ありませんでした、わたしの責任です」と言うことができる人です。
人間力のある社長であれば、「いやいやそんなことはない、君のせいじゃない。次からもっと伝わるようにこちらも対応するようにしよう」と、言うことができる。赦し合う関係を築くことができる。

目上の人を立てることができるのは、リスペクトがあるからです。その「心」がないまま、形だけ素直なフリをしていると、次第に頭痛がしてくる、ボロが出る、体調を崩す・・そこに無理があるからです。

素直であれば、赦されます。あなたは赦される側に回らなければいけない。謙虚な人というのは、守ってもらえることさえあります。

でもあなたは、「赦す」ではなく「許す」の方、許可を出すかどうかが基準になっています。どちらが正しいか間違っているか・・、そんなことは二の次なんですよ。

共に創ろうとしているものに対して、まるでゴジラが火を吹くみたいにすべて台無しにしてしまう、それはとても危険なことです。だから、わたしはあなたを昨日からずっと、心配していました」


先生の誠心誠意のこもった言葉を聞いていても、わたしはまだ、ひねくれた自分を手放せずにいました。
先生の想いや願いといったところはスルーして、自分が拾いたいと思うところは「先生や嫌なことを言っている、わたしを責めている」という部分だけ。まだまだ怒っていたいわたしは、怒りを掻き立てるところを拾い上げ、増幅させ、噛み付いていました。

いろんなことを拾ってきては、言い訳をする・・。どうにかして、わたしは間違っていないと主張したい、そして、先生にわかってほしい、受け入れてほしい、そんな思いがどんどん溢れてきました。

だけど先生は、”そのわたし”に対しては、始終、威厳のある態度でそこに存在していたように思います。
わたしがあの手この手、どんな手を使ってでも「先生にわかってほしい」という次元での甘えは、一切受け入れなかった先生。

それは、そのわたしを一度でも受けれてしまえば、わたしはこれからもずっと同じ手段で、先生にわかってもらえるまで暴れることになるから・・でしょうか。先生はそれをわかった上で、あの長時間ずっと、わたしのために真っ向から伝え続けてくれたのかもしれません。

ゴジラが街中を壊しながら暴れている、その攻撃を一身に受けながら、尚も逃げずにそこにいてくれたこと・・。いったいどれだけ、先生は負傷したんだろうか・・。どれほど痛かっただろうか・・。

先生、本当にごめんなさい。そして、本当にありがとうございます。
喉が詰まって言葉にはできなかったけれど、心にそんな想いがフッと浮かんできて、広がっていく。

先生が何かをしようとした時に、一流の人、プロフェッショナルな人というのはたくさん周りにいらっしゃいます。現時点ですでに優秀で、場をわきまえられる、自分をきちんと制御できる人間性を持っている方は、事実存在する。
だから、このわたしを関わらせてくれようとすること自体が、普通では考えられないことなのだと思います。

でも先生は、ことあるごとに、こう伝えてくださいます。
「それをすることで、あなたのトレーニングになっていきますから。勉強になりますよ」と。

先生は、わたしにだけではなく、他の方にも同様に、その人が成長するチャンスを惜しみなく与えようとしてくださる方です。なぜ、そんなに大変なことばかりされようとするのか、わたしには到底わかりかねる、大きすぎる愛というか、愛を超越した何かがあるのではないかと感じています。

わたしが、わたしと仕事をしたいと思うだろうか。わたしがわたしと関わって何かを任せたいと思うだろうか。そんなふうに想像してみると、「絶対こんな人はごめんだ・・」と思ってしまいますから。

普通なら社会から置いて行かれてしまうような悪態を持っているわたしに対して、こんなことまでを本気で諭してくださる、本気で喝を入れて引き上げようとしてくださる。

会社にいれば、関わりたくない人としてあしらわれたり、もしくは機嫌を取られて危険人物扱いされるか、誰にも相手にしてもらえない、重要なプロジェクトには関わらせてもらえないなど、そうなるのが関の山なはずです。

しかし、久瑠先生は、「絶対にそれは、してはいけません」と真っ向から伝え、信じてくださった。
いま、やっと、あの時間に、あの時の先生に、申し訳なかったという気持ち、有り難いという気持ち、頭が上がらないなという気持ちが、涙と一緒に溢れてきます。

視点が下がると、これまで積み重ねてきた大切なものすべてと、さらに大切なこの先の未来そのものと引き換えにしてでも、「自分」を主張したくなる恐ろしいものを自分の中に再確認できました。

あの場面で、わたしのように猛獣化するタイプもいれば、メソメソ泣いて「これ以上、わたしを傷つけないで」という方法を取る人、笑顔でうなずいてまったく聞いていない人など、結局はどれも同じなのだと、先生は教えてくださいました。

この件を通して、わたしは自分の中にある「業(ごう)」の強さと、人間が持っている闇の力、命懸けで自分を守ろうとする悪態、美しいものへの抵抗など、とんでもないものを目の当たりにしたような気がします。
そしてそれを「とても大切な学び」として教えてくださった先生の偉大さを、感じずにはいられません。

先生は、わたしの過去、現在、だけでなく、未来までも救ってくださった。この気づきと学び、先生の教えが、一人でも多くの方の未来を変えてくれること、救ってくれるにちがいありません。
先生の潜在意識が目の前の人間の在り方をまさに変えてしまう、この紛れもない真実をお伝えできたらと書かせていただきました。


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