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槐多にまつわる〜絵のはなし

学生時代の、当時の一般教養科目、いわゆるパンキョー。
私は結構好きな科目があって、毎週楽しみにしてた。
中でも夜の「美術史」。この授業は今でも時々思い出す。

私はこの授業で、「村山槐多」に出会った。
この輪講科目のその日の担当は丹尾安典先生。先年退官されたようだが、当時はまだ若手だったと思う。
パワポなんてものもない時代、あれはスライドだっただろうか、冒頭スクリーンで映し出された絵に私は目をむいた。
赤い坊主の男の放尿図。
ん?祈ってる?僧侶?
そう。槐多の代表作、「尿する裸僧」だ。
しかし私には初めて見る絵だった。「村山槐多」という名前も初めて聞いた。

丹尾先生は「どうだーすごいだろー」という表情をしていた。
続いて、槐多少年の写真も映し出される。
海水浴場での姿、そこでまた目が点。
褌にMERANCHOLY、痺れるなあ。
(つづりが間違ってるのもかわいい)
自画像も紙風船かぶってるよ!かっこええ~。

「ガランス」という色も初めて知った。
槐多が使った赤。彼が命を燃やした色だ。
スクリーンにガランスの色が映し出される。
その色はこれだけの年数を重ねても、今も鮮やかに目にやきついている。

学生時代の無為の日々のなかで、その後、何か展覧会を見たりとか、彼の画集を手に取ったりしたことはなかった。
しかし、大学4年の春、友人と訪ねた吉祥寺のライブハウス「曼荼羅」で私は槐多と再会した。
歌人、福島泰樹の短歌絶叫コンサートの一曲、「デカダン PartⅡ」だった。それは村山槐多の遺書から始まる。

 自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帶びて居る事を十五、六歳から感付いて居ました。
 私は落ちゆく事がその命でありました。 
 是れは恐ろしい血統の宿命です。
 肺病は最後の段階です。
 宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、引き上げようとして下すつた小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝します。
 たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陷ちるでせう。最底の地獄にまで。さらば。
一九一八年末                         村 山 槐 多

(「村山槐多全集」彌生書房)

ピアノの音とドラムのリズムに乗って、短歌が絶叫される。その中で私の耳にこの歌が残った。

わが死なばよからんものをかのときも津の町も雨 蕭々と雨 /福島泰樹


「津」だ。今「津」の歌だった。
私は津の生まれなのだ。村山槐多、津に住んでたことあったのだろうか?

コンサートが終わったあと、福島先生と少し話が出来た。村山槐多の曲で「津」の歌が出てきますが、何かゆかりがあるのですか?と厚かましくも聞いたのだ。
「ああ、臨海学校に行ってるんだよ」
蘇る記憶。夜の教室のスクリーン。
「あ、あの褌にメランコリー!!津の海岸ですか!?」

  七月二十五日  晴、

朝近来に無い大ふんぱつで五時に起きた。
あたり前さ、今日は津行の日だもの。
(「磯日記」より 「村山槐多全集」彌生書房)

 1908年の槐多。小学6年生の夏の日記だ。なんと可愛い。このウキウキとした朝の記述の後、またビロウな話が続くのだが、それも微笑ましい。
 少年槐多は津の海で、観海流泳法をマスターしていたのだ。
 私も砂浜で遊んだ海、あの海に槐多がいたのだ。夏の日の津のまちを彼が歩いていたのだ。

 その後、村山槐多の展覧会などで彼の絵を直接見る機会に恵まれた。わが故郷、津にある三重県立美術館でも生誕100年の折には村山槐多展が開催された。
 また、嬉しいことに、三重県立美術館では槐多の作品を多く所蔵してくれていた。恋する少年に宛てた乙女魂のピンクの手紙も、たしか津にあるはずだ。

 「落ちゆく事」を宿命として、血を吐きながら絵を描いた一人の天才の、ひときわ明るい少年の日。津のまちに雨も降る、そして陽も照る。
 津のまちで静かに眠る槐多の作品、常設展でかかっているといいな。この秋冬はようやく帰れそうだから、美術館を訪ねてみたい。


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