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幸せに「なる」という表現への異議

子供のころ、身近な大人が、健気ないい子だけれど女性らしさのなさを売りにしているような芸能人に「この子には幸せになってほしい」とよくいう人だった。それはつまり、幸せな結婚をして温かい家庭を築いてほしいという意味だった。

当時はそれを聞いて、いい子だから幸せになってほしいという気持ちに、確かにそうだなと思っていたが、いつからか違和感を感じるようになった。

自分が大人になったことと、昨今の価値観の移り変わりによって、すでに幸せだろうに他者が「幸せになってほしい」というなんておこがましいし、結婚することが目指すべき幸せではないだろうと。誰かの幸せを祈ることは素敵なことだけどね。

結婚して幸せになりたい。お金持ちになって幸せになりたい。有名企業に就職して幸せになりたい。というけれど、何かを手に入れること=幸せになるではないよなと思う。

幸せって、幸せを感じるとか、今幸せとか、英語でいうbe動詞のような状況を表すものであって、「なる」ものではないと思う。

誰かの幸せを祈るとき、これからも幸せでいてねと言いたいのだけど、日本語としては不自然だし、でも私は幸せになってねとは言いたくないのだ。だって今だって、今までだって幸せだったじゃないか。


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結婚する女性に幸せになってねという言葉が慣用されているのは、嫁ぐ時代は幸せに過ごせない可能性がそれなりにあったからなんだろうかなんて思ったり。

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