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私は生まれ変わり。おばあちゃんは被曝者。運命を生きる。

おばあちゃんは、17歳の時、長崎の原爆を受けた被爆者。

おばあちゃんは生き延びたが、最後は被曝の影響を受けて白血病で亡くなった。私が幼稚園生の時だ。東京にすむ私は夏休みになると北九州のおばあちゃんちへ遊びに行った。あまり覚えていないけれど、旅行に行って、沢山可愛がってもらったのを覚えている。

もう亡くなってから20年ほどがたつ。おじさんから、おばあちゃんの遺品整理をしていて見つかった沢山の書物が処理に困るからと送られてきた。

その中にあった、被曝者の方々の記録。(後述)

私は幼かったので、今までおばあちゃんから原爆の話を聞いたことはなかった。お母さんから伝え聞いたくらいだ。今回、初めて、おばあちゃんが残した記録から当時のことを知ることができた。

おばあちゃんの記録は壮絶だ。

17歳で親、兄弟を一度に亡くし、貧しい中で幼い弟妹の面倒をみて、戦後の日本を生き延びた。後に、子供を3人もち、それぞれが結婚し、沢山の孫が生まれ、多くの命を繋いできた。私は、おばあちゃんの次男を父にもつ。おばあちゃん、そして父の努力のお陰で、生まれた時から裕福で幸せな家族環境の中ぬくぬくと育った。それが、100年もしない過去に、これだけ壮絶な世界を生き延びたおばあちゃんのお陰だと思うと、今ある命、歩んでいる幸せで満ち足りた人生に、感謝せずにはいられない。

驚いたのは、おばあちゃんの弟の2人が、被曝の年、私の誕生日である9/7に亡くなっていたこと。

もしかしたら私は、その生まれ変わりなのかもしれない。お母さんは良く言う。私は昔から運に恵まれていると。確かに運を感じずにはいられないような事が人生に起きていて、大変な状況でも運命を信じる事ができるのであまり物事に怖じ気ないようになった。そういう星の元に生まれたんだねと母に言われる。きっと誰かが守ってくれているんだよと。

守護神。。。かな。きっと、この遠い親戚なのかもしれない。

気付いた時にはもう、既に自由な世界に恵まれて育っていた。誰かが願ったお陰だろう。だから私は、この命を全うする。

おばあちゃんの亡くなったご兄弟の分まで、自分の誕生日を祝いたいと思う。

おばあちゃん、ありがとう。


以下は、おばあちゃんが戦後残した本、被曝者の声が集まった文集から、おばあちゃんが書き示した文章の抜粋である。

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[死亡の状況・遺族の思い]

みんな佐賀の病院に入院していたのですけど

父は勤めのことで長崎の道ノ尾にある会社の寮に一晩止まった時、心不全で死亡。母は眠ったままふっと、目をあけませんでした。弟2人は、それまで口から血をひっきりなしに出していたのですが、10日ほどで眠るように、喉が蜂の巣のようになって真っ黒に焼けていたそうです。解剖して病院にホルマリン漬けにしてありました。妹は火傷で死亡。最後の弟(被爆時2歳、昭和25年.12 死亡)は、背骨の下の方に穴があいたみたいで、ウミが出て背骨が反って、死亡診断書には結核と書いてありました。

両親などが亡くなった時、私は涙が出ませんでした。ポロとこぼれた位です。悲しみは通りこしていて、ほったらかされた、死に遅れた、どうしよう……という不安がいっぱいで……きっと両親も死にきれなかったと思います。17、16歳の下に9歳、5歳、4歳、2歳を残したのです。それに私は御飯も炊けず何もできない上に放心状態です。幼い弟妹は淋しいとも言えず、抱き寄せてくれる人もおらず、どんなに心細い毎日だったことかと、私は今更ながら思い出しては泣いています。

16さいの弟が志免鉱業所で働き、坑内で石炭掘をしました。そうして炭鉱の人達のお陰で社宅を一つ下さって、そこで姉弟妹と6人は暮らしました。ボロ布布団一つに戦災者に渡った毛布が何枚かと、着たきり雀でした。炭鉱のお蔭で炭だけはあったので、冬も暖かくすごせました。家の中には何もないのです、鍋釜一つずつ。家に入ってきた人がまず驚くのは、白い布に包んだお骨箱が、その時は5コ、ミカン箱を二段にしてお骨とお位碑を並べていました。引っ越す時は、お骨箱を5コ背負ってあるきました。

何よりも何よりも悲しく胸が痛むのは、幼い弟妹のことです。親をなくしてどんなに心細かったでしょう。どうして優しく抱き寄せてやらなかったかとくやんでいます。死んでいった弟妹にあいたい。いつも心の中で、ごめんね……とあやまっています。

現在残った弟妹と逢うことがありますけど、悲しくて昔のことは話しません。先に涙が出てきます。

長崎 直瀑3.0km 女 17歳

[死亡家族の概況]

①8/28 妹12歳 直瀑0.5km 大火傷 遺骨で

②9/7 弟 14歳 直瀑0.9km 原爆症 遺体で

③9/7 弟 8歳 直瀑0.5km 原爆症 遺体で

④9/9 母 39歳 直瀑0.5km 遺体で

⑤12/25 父 42歳 直瀑1.0km 病気 遺体で


生き延びたおばあちゃんは、直瀑3km。亡くなった親兄弟は、それより近い距離にいた。運命って、無慈悲。運命とは、こういうものなのだろう。誰にも予測できない。向き合うしかない。




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