田上パル『Q学』を観ました。

太宰治の「走れメロス」を演劇をやったことも興味もない女子高生たちが上演する劇中劇と、来るか来ないかもわからない友人をその上演のために信じて待ち続ける二重構造のお話でした。平田オリザさんの『幕が上がる』のことをちょっと思い出しました。

小学生のころ教室に来ることが出来ない(精神的な要因で)生徒が通うクラスが校内のはずれにあって、僕はそこにいるT君という保育園からの友達のところによく遊びに行っていました。彼は散髪屋の息子でどこにでもいる普通の男の子でした。

沢山人がいるのが苦手だった僕にとっては教室よりもそのクラスで遊んでいるほうが気が楽でした。ある日T君から手紙をもらいました。学年が一つ上がる時期だったと思います。
「山下君はこんな俺とも仲良くしてくれるナイスなやつだ。これからもずっと仲良くしてくれ!」たぶんこんな感じのお手紙でした。

僕はとてもうれしかったのと同時に彼から向けられる特別な好意(友人的な意味の)をどう受けていいのか困惑してしまい、それ以来なんだか行きづらい気がしてしまい段々と彼のいるクラスから足が遠のいてしまいました。

もう一つ別の話。
演劇を始めて不登校の中学生が通うクラスにWSをしにいく演劇関係者の見学に行ったことがあります。

彼女、彼らはとてもシャイで内公的で、和を尊ぶみたいなことにはあんまり興味がないようで、とても警戒心が強いのかなと思いました。僕も大体そんな感じを今も引きずっているので違和感はないけどこっちはまぁまぁ大人なので勝手に共感しても中々仲良くはなれませんでした。でも生徒たちはシアターゲームが進むにつれて最初とはあきらかに、だんだん体が変わってきて最後にはみんな笑いながらゲームに熱中していました。
僕は結局あんまりしゃべれなかったけど、継続してそのクラスに通っている人は友達みたいに名前を呼び捨てされていました。

『Q学』のシーンの中で生徒たちは外の世界の人たちに警戒心や反発心を抱いている一方、自分たちのコミニュティーではどんな風に振舞っても許される安心感をもっているように見えました。その結束は一見強く見えたけど、一人距離を持ってしまった友人を残酷なほどに切り捨ててしまうシーンもありました。

僕は「あぁ…」とは言わなかったけど音が喉元まで出掛かってしまいました。

大人と子供の狭間の不安定な“ばしょ”は、家族と言うコミニュティーから他者達と関わり始めたばかりの“ばしょ”は傷つかないために強い強い警戒心がゆえ残酷になってしまうよな。と。受け入れるとき大人になってしまった僕からすると不安になるくらいの寄りかかってしまうし、危険も顧みず夢中になって突っ込んでしまうよな。と。

あのときのT君も僕も、すごく細い崖を落っこちないように歩いていたのかもな。と。
細い崖の上では落ちないために必死に手を握ることもあるし、手を振りほどいてしまうこともある。

コロナのことでセンシティブになっている社会の中で久しぶりに演劇が観られてそのことにもちょっと感動したけど、社会にとっても(僕にとってだけかもしれないけど)、彼女たちにとっても演劇が細い崖の上で少し広い足場になっていたみたいに感じた。

ほんの少しでもそんな“ばしょ”があることの救いみたいなことを想った作品でした。
僕にとっては。

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