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4月3日

朝の台所は白い。流しの窓から差し込む光はどんな天気の日にも白い。トマトの中華風スープを温めて食べる。
大根が少しかたい。最初に作った時にちゃんとやわらかくなるまで煮こまないと、そのあと冷蔵庫に入れてレンジで温め直してもかたいままだ。

洗い物をしてオレンジ的なのを食べる。オレンジのなにかの種類で何という名前かわからない、大きいやつ。グレープフルーツくらいの大きさで、皮の表面はもうちょっと固いが、実ばなれはいいのでむきやすい。
一房づつ食べようと実と実を剥がそうとすると薄皮がすぐにやぶれて、実が割れて大量の果汁が指をしたたり、分厚い表皮に落ちて小さな水たまりができた。
冬にもらったものをずっと置いておいたので、いまいち甘くない。冬のうちに食べた同じやつはもっと甘かった。皮をむくのが面倒で置いときすぎたのだ。
真っ白な薄皮から割れた実が現れている。よく見ると一房が一つの実なんじゃなく、米粒みたいな一粒一粒の小さな実の集合が一房になっている。ここは食べるものしか目に出来ない場所だ。果汁はこの小さな一粒の中につまっている。さっき指を滴ったのもここから来たのだ。
ぜんぶが白い光をささやかに跳ね返している。みにくくも見えるし、きれいにも見える
こんな状態で売ってても誰も買わないだろう。でも食べる時にはこれを目にすることになる。なんだろうこれは。

あと一週間で本番だ。
たぶん芝居はもうお客さんに観せてもいいくらい。いいけど、これだと綺麗すぎる。整いすぎている。
そういう時は、そういうふうになるだろうな。という域を出てないというか。
もうちょっと壊れていてほしい。みかんもザクロも売り物のときはきれいでいいと思うけど、食べるなら皮をむいて実がつぶれて、果汁が指をつたって、香りがインクを水に落としたように空気に広がってほしい。

生きていて割と恥ずかしいなと思ってしまう。何かして恥ずかしいとか、存在しててすいませんとかそういうことではなく、漠然と生きていることが恥ずかしいと思ってしまう。世界から隠れたくなってしまう。顔を赤らめるような恥ずかしさでなく、背中に座右の銘をわら半紙で張られて剥がせないような恥ずかしさだ。

でも、作っていてどうしても観たいと思ってしまうのはそういう恥ずかしさだ。
なにを恥ずかしいと思ってるの?別にそんなの誰かにとっては恥ずかしいことでも何でもないのに、あなたにとっては裸で外を歩きながら道を訊くほうがましだと思うほど恥ずかしい。
そういうものをみせてしまうことができるだろうか。それをみせてくれというのはいつも簡単で、じゃあ自分がみせてみろいわれると全然できない。ただの露悪になったりする。

あんまり甘くないオレンジみたいに恥ずかしくて、恥ずかしいのが美しいようなそういうものができたらいいなあと思う。

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