居酒屋の哲学者 松村康貴様へ(往復書簡2)




お手紙ありがとうございます。ひょんなことから始まったこの往復書簡ですが、大変嬉しく、松村さんからの手紙を心待ちにしておりました。そして楽しみすぎて勝手に通り名までつけていることをお許しください。これだと居酒屋を哲学する人みたいですね。でも居酒屋での哲学から始まった対話だったので、凄くお気に入りなのです。自分では松村さんにピッタリだと思ってたりします。

このやり取りの始まりも些細なきっかけでしたが、松村さんの心に浮かんだ魅力溢れる問いも、些細なきっかけが始まりだったのですね。電話連絡での四苦八苦する場面、まるで自分のことのように鮮明に思い浮かべることができます。というかほとんどの方が同じような経験をしているのではないでしょうか。今やスマホは欠かせないものとして僕らの生活に登場していますが、使用までの道のり、修繕が必要になった際の複雑な連絡系統。便利な機器を使いこなすのに、不便を強いられる、ヘンテコな世界となってしまいましたね。松村さんが仰るように、ユーザのほとんどが抱え込んでいる知識不足は確かだと思います。だってもうわけ分かりませんもん。

「問い合わせ先がわからない」、つまり応答する人がいないというのは、僕らの社会で今後どのような問題を生み出すのでしょうか。やっぱり僕は介護職なので、介護の世界からその問題を捉えてみたいと思います。


あるおばあさんがいました。午前中は比較的穏やかに過ごされることが多いのですが、夕方から夜にかけて、フロアを所在なさげに歩き回る、いわゆる「帰宅願望による徘徊」を繰り返す方でした。その要因は様々であり、やれ脱水だ、やれ過去に帰っているだ、などとその方の行動をどうにかして想定内に収めようとします。それもそのはず、現在介護の世界では科学的根拠なるものを用いて介護することが勧められており、徘徊などといわれる所謂「問題行動」は、根拠をもって対処しなければならない最たるもののひとつなのです。もちろんそれが上手くいって落ち着かれることもあります。まぁだいたいが検討はずれで終わったりもするところに救いがありますが。

おばあさんは幾度となく職員に問いかけるわけです。
「どうやったら帰れるの?」「いつ帰れるの?」
その問いに単純明快に答えるわけにはいかないのが悩ましいところです。だっておばあさんが頭に描く帰る場所というのは、最早現実世界には存在しないのですから。
「あなたの家はもう無くなって、今はここの施設に住まわれていますよ」
という真実を伝えたところで、おばあさんにとっては真実ではないのです。時折現実世界と上手くリンクして、その真実が紛うことなき真実としておばあさんの世界に受け入れられることもありますが。

おばあさんは闇雲に「どこに問い合わせすればいいかわからない」現実に抗い、ひたすらに「辿り着けない」世界に存在しています。おばあさんの焦燥は次第に増していき、その問いかけは僕らに重くのしかかります。福祉の心はどこへいったのか、目の前に立ちはだかる、こなさなければならないタスクに追われ、問いに応えることも憚られます。そしておばあさんの声を聞こえているか聞こえていないか、あやふやな対応をしてその罪悪感を削ぎ落とす。そんな僕を見抜いてか、おばあさんの問いかけは留まることはなく、僕らの心を深く抉っていきます。おばあさんはまさに今、間違いなく迷惑の種の人となってしまったのでした。


おばあさんは俗にいう認知症老人でした。時空間の認識のズレからくるその繰り返される問いは、僕らにはとても過酷なものとなっていました。ただ幸いなことに、僕らはおばあさんの問いに、それでもなんとか応えようとしている、ということです(だいぶ怪しい時もありますが)。


おばあさんにはカフカの『城』の主人公Kのような自国の者となる選択肢は与えられません。おばあさんには僕らの「国」に来る気なんてさらさらないのですから。松村さんが懸念する規律を理解し規律に従うことを是とする社会には、おばあさんの居場所はどうやったって作れないのです。


だからこその僕たち介護職だと思うのです。問いかける先がわからず、辿り着けない今を彷徨うおばあさんに対し、これからの現代社会の出す答えは辛辣です。おばあさんの相手はロボットやAIがする。取り沙汰されている介護施設への人員配置基準規制緩和などがそれを物語っています。要は応答さえすりゃいいんだろう、というような悲しい帰結が有り得る世界が近づいているのです。松村さんがただただ機械音声とのやり取りを強いられたものと、本質では同じような気がします。


コンピューター黎明期。アメリカで「イライザ」というソフトが開発されました。こちらがメッセージを打ち込むと、返事をするソフトです。
「今日は晴れですね」と打てば、
「今日は晴れなんですね」と返ってくるだけです。
これを神経症の患者の治療に使うと、はっきりとした効果がみられたそうです。ようするに人は「応答する」だけである程度は安心する、ということです。しかし、それから数十年経った今、「応答さえ」すればいいとして、機械にその役割をすべてあてるのは、酷な社会なのではと感じてしまいます。


それでも、応答する人がいないことはコミニュケーションの危機であることには違いありません。感覚遮断実験で有名なヴァーノンは、その著書『暗室の中の世界』で、参加者の声を紹介しています。音も光も届かない小さな部屋に閉じ込められた参加者は、思考能力、記憶などの学習障害、見当識障害も現れ始めました(認知症の症状そのものですね)。ヴァーノンは「どうすれば異常にならなかったか」と質問しました。それに対し参加者は、「机の上にマイクを置き、誰かに話しかければ別の場所で聞いてくれるという状況を」と述べたそうです。ヴァーノンはこう結論付けました。
「人の精神は容易に調和を失うが、その調和を保つには、自分を受け入れる他人が必要だ」



介護職はまさにそこに踏み留まろうとしています。おばあさんの問いかけには完全には応えられない。辿り着けない世界へは連れて行ってあげられない。たとえそうだとしても、その声を聞き、一緒になって困ることができる、そうやって共にあることはできるのです。
だからこそおばあさんからの「ありがとう」も「ばかやろう」も僕らは聞き取ることができ、同じように「ありがとう」とも「ばかやろう」とも言うことができるのです。ありがとうといえない世界になりつつある世の中に、介護の世界はかろうじてありがとうといえる世界にその身を置くことができている。なんてことまで言えば、少し綺麗過ぎるかもしれませんね。



ありがとうといえる世界にするにはどうしたらいいのか。はたまたありがとうといえる世界がそもそもいい世界なのか。ありがとうといえない世界が世を覆い尽くすその前に、松村さんと考えていけたらと思っています。ただ、このような機会を設けてくださったことに、僕は松村さんに心置きなくありがとうといえます。これだけは今のところ確かです。
壮大なお話を、まるで居酒屋で一杯ひっかけながら不躾なことばかり言うおじさん達のように、ゆるりと語りあいましょう。お返事またお待ちしております。


居酒屋の哲学者になりたい鞆隼人より

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