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八束村史【852頁(一)黒住教】

当地黒住の創始は遠く安政三辰歳という。当時上長田村の庄屋をつとめていた丸山次郎左衛門善政は、本教の信仰篤く、弟粂三郎外門人三十八名、門外六名などとともに発願し、粂三郎所有の字宮本の山林中に社殿を造営して伊勢大神宮から天照大御神を観請、備前大元黒住宗家から宗忠大明神御霊を観請、同時に八百萬神々を降神鎮斎して同年八月七日鎮座祭を挙げた。この鎮座祭に来賓として参列した本多応之助は当時の模様を次のごとく伝えている。「美作の国大庭郡布勢庄上長田の村司あがた主丸山治郎左衛門善政道に入って御神徳を蒙る事広大にして難有き、あまり願くば此の大御道の祖の大神を遷し祭りて斉き拝み奉らんことを希ひ舎弟粂三郎と共に同門庶中を勧む人々の心同うして己に此事極まりぬ、依て丸山善政みずから吉備の前国に至り大元黒住宗家に詣で一向に願う、当に妙なるかな御神慮尊くも速に願意叶いて此の年の秋八月七日に至り御勧請整い粂三郎取持の山林字宮本といえる地を開いて宮宇造営清め調い鎮座祭奉りき、是に依りて例年八月七日を祭日と定め侍りぬ、則ち御本宮は天照皇太神豊受大神宗忠大明神三柱を鎮め祭りき、末社は天神地祇八百万神を祭奉りき、此の宮を号して宮本山太神宮と申し奉る也、即ち勧請式速かに成就し侍りぬる事幸いにして目出度くも難有き限り筆舌に尽くせず、云々」とあり、鎮座祭には神主門人丸山常陸、芦立伊勢、入沢芦雄、佐藤織部、御船内蔵、御船國太郎参会、来賓として宗忠大明神門人行事黒住宗家代講天心、小林真茂門人添書任本多勝日子、伯耆蔵内戸崎順蔵、逢束、山本貞治郎、作州湯原、美甘兼治郎(政和)、小童谷池田茂太郎、下長田入沢重郎、伯耆蔵内牧田文左衛門、上古川牧田孝十郎、小田村田中善三郎など十一名が参列したというから盛儀のほどがしのばれる。
 くだって明治八年五月二十五日右社殿に接近している丸山広久(当主勇)宅を講分社とすることを議り、黒住宗篤管長から出願、時の北条県から認許になり、講義係に芦立重暉・入沢重郎が就任、翌九年六月二十三日五分講社となって、講頭に神主訓導入沢芦雄、副講頭に芦立重暉、同入沢重郎が任命された。越えて十二年七月九日美作の国四番教会所に昇格、教会長心得芦立重暉となり、続いて翌十三年夏その隣地五百九番地に教会所を新築して旧社殿を撤廃した。ついで、(年月不詳)小教会所となり、入沢重郎が所長に就任した。越えて明治十七、八年ごろ上長田中教会所不動の基礎が築かれ、事実上の初代所長稲石信が就任。四十二年九月十日黒住教上長田教会所が認許された。同四十四年七月六日、三十年近く所長として勤務された稲石所長辞職、西王庄太郎がこれに代わった。
 大正五年五月当教会所附属教祖神御神跡地講義所を新設(現在川上村上福田)。神跡地教会所同所神主芦立重広邸内に奉斎してあった天照大神八百万神宗忠大明神を迂座開講式を執行し、越えて同七年八月十六日に至り講義所として本庁より庁許になった。開講式には管長代理代講河上市蔵、随行教師森谷郁太、教区長石戸保治諸教師が参列した。
(歴代所長略)
宮本山大神宮と称した時の氏子四十件、入氏氏子六軒であった。
黒住教と敬神講
 黒住教の発展に伴い、明治初年ごろからは信者も多くなり、多くの部落に敬神講が結成され、素朴ながら道の修行に励んでいた。下福田、上中井川に残っている関係文書を見るに、講加入者は、二十余戸。ほとんど全員近くが宗派を問わず改式信徒となっていたようである。
 講の会日は毎月一日で、順番に宿をしている。明治二十二年規約を改定。それ以前のものは分からないが、次のように至極簡単なものである。
 敬神有志名簿
○社則
一、毎月一日を会日と相定め候事
一、冬日会は別篭を以て会宿相定め候事
一、右何れも宿篭は一廻りの間取除の事
 但し冬至会は考えに任せ献供物一同持参事
○三カ条訓戒
 第一条
一 敬神愛国の旨を体すべきこと
 第二条
一 天理人道を明らかにすへき事
 第三条
一 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむへき事
○教祖七カ条訓戒
一 神国の人に生まれ常に信心なき事
一 腹を立て物を苦にする事
一 己が慢心にて人を見下す事
一 人の悪を見て己に悪心を増す事
一 無病の時家業怠りの事
一 誠の道に入りながら心に誠なき事
一 日々有難きことを取り外す事
 右の条々常に忘るべからず 恐るべし恐るべし
 立ち向う人の心は鏡なり 己が姿を移してやみん

行事は夜分が普通で宿に集合、床に御神号掛軸・榊・神酒・供物などを飾った前に先達を先頭に正座。清祓の後、神言-大祓詞(現行のものより内容長し)五本(冬至会では10本)奉唱、祝詞奏上に次いで、次の三カ条、教祖神七カ条の訓戒を奉読。あとは有志の説教、感話など、ささやかな直会もあり、歓談して解散した。
 冬至会には宿でお供餅一重を供え、会員に分配した。
 昭和時代になると、神社でも、これに合流社号を書いた軸を掛け、氏神講ともいっていた。さらに戦時には戦勝と出征兵士の武運長久を併せ祈願した。終戦後は敬神講も次第に寂れていった。

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