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素数とパンケーキ

 「環境から整えていこう!っていう奴、俺嫌いなんすよね」

唐突にそう言われ、私はコーヒースプーンを置くタイミングがずれてしまった。かちゃん、と音を立て、ソーサーには薄茶色の染みができている。

「はい?」

「いやーなんかもう、抱えてる後輩の一人がもう最悪でー」

昼下がりの喫茶店。ここのお店では、コーヒーしか飲んだことがないけれど、メニューのご飯も美味しいと聞き、それを口実に後輩くんといっしょにランチに来た次第。

後輩「くん」って、オバさん社員かお局様が言いそうなフレーズだな…と我ながら思う。今はもうすっかり、年を重ねる度に緩慢に発生するこの小さな現象を、少しずつ受け入れつつある。

と言うのも、私は今、抱えている部下の何人かが、別のチームへ巣立っていき、今はそれぞれが新しい企画を立ち上げ、自分はそれをフォローする役に回っているからだと思う。

企画の中心からは外れてしまったけれど、昼下がりにコーヒーをお金を払って(自動販売機にではなく!)、しかも、ふかふかのソファに座ってのんびりと飲めるくらいのスローライフを手にすることができたのだ。

「もうそいつめっちゃ浮いてんすよー。たぶんね、自己啓発とかハウツー本とか読み漁ってるからだと思うんですけど、やけに芝居がかっていて、うわ、イタイわぁって」

彼は勝手に話を進めながら、予めナイフが入ったパンケーキの一片をフォークで刺した。丸くて少し弾力のありそうな生地の上には、バターとホイップクリームとあんこが混ざり合い、カロリーの大洪水と化している。

「まあ…ウチの会社って結構、仕事出来るけれどちょっとワガママな子が多いから、そこは仕方ないんじゃない?」

私は注文したパスタにタバスコをかけながら言った。

「え、そうすかぁ?俺そんなワガママでした?」と、彼は皿の上の洪水を一滴も残すまいと、フォークで刺した生地で拭き取っているが、吸いきれずに生地からボタボタ垂れている。あきらかに皿の上の固形物と液体のバランスがおかしい。

「小山内くんはマシだったかなぁ」

「かなぁーって。ひどくないすか」

「というかそんなに量食べてて飽きない?」私は話題を反らすために、彼のパンケーキを指さす。

「不思議と飽きないんすよねぇ」小山内くんはしみじみと、溶け切ったバターを、今度はナイフで器用に掬って生地の上に垂らしながら答えた。「味は普通に想像できるんすけど。昔っから食ってるし、家にもミックス常備してるし。でも食いたくなるんすよね、お金払ってでも」

いや、そーじゃなくて、と小山内くんは口を尖らせる。

「ちょっとでも自分の意見が通んないと、『抜本的に環境を変えましょう』とか言うんすよ?環境って、言葉選んでるつもりかもしれないけど、お前の方針が悪いっていうのが透けてるし。提案している体らしいけど、どう見ても批判する気満々だし。少しも自分のせいだって思わなくて。さすがに俺、新人の時はあそこまでひどくなかったですよ」

私はスプーンの上で麺をくるくる巻いている。そういえば、スプーンを使ってパスタを食べるのは何年ぶりだろう?一発で一口サイズに巻けず、とぐろを巻いた何本かがスプーンからこぼれ出ている。

「そういうもんだよ。経験が浅いうちは、言葉でしか手段がとれないから。むしろ、活きが良い子じゃない」

とか、いかにも引用じみた言葉がスラスラ出てきた自分に驚く。確か一人目の女の子はだんまりで、二人目の男の子は「はぁ。そうですか…」なんて気の抜けたような返事だったか。

小山内くんはフォークを握ったまま、黙ってこちらを見ている。

「え、何」

「桑名さんは、今までそーいうことがあったら、そんな感じで割り切っていったんすか?」

「え?」

そーいうこと?そんな感じ?

きれいに巻けたパスタを口に持っていくタイミングが少しずれて、ぼとん、と塊が皿の上に落ちた。テーブルにクリーム色の染みを作り、それを見た彼は子どものように笑いだした。

「うわ!ギャグすか?」

「いや、変なこと言うからもう」

彼はそれ以上、何か問いただしたりせず、最後の一片を口に放り込み、「いやあ、旨かった」と唇を舐めた。

「桑名さんごちそうさんでした」

「いーえー」

彼はこれから打ち合わせで移動になるので、このまま別れて私は会社へ戻る。

少し歩をゆるめながら、彼の言葉を頭の中で反芻する。

今日、私が出来たことは、パンケーキを食べる君に対して、暗いトンネルの足元を照らすようなかける言葉をかけないで、気持ちを翻訳するだけだった。今の私にはそれしかできない。

死ぬほど努力してるのに、正当に評価してくれなくて、そんな風に考える私はなんて驕りが強すぎるんだと毎日泣きたくて、メイクを落とすのもしんどいからスッピンで出社することもあって、ジムに通えていないのに退会する手続きする時間も惜しくて毎月1万円くらい口座から引き落とされて、たまの休みを贅沢に過ごしたいと思っても、安月給で自分と同じ仕事量をこなす仲間のことが頭に浮かぶと罪深く感じて、その日は一日中、部屋にひきこもったり、そうして私は今、幾年ぶりかのバカンスを満喫していて、パズルのような慰めの言葉を君に当てはめている。

手に入れたものと引き換えにして、「仕方ないから」と言い聞かせることで、蜂蜜を冷たい水で希釈するように、少しずつ自分の中の「何か」を手放してきた。そーいうことがあったら、そんな感じで割り切ってなんかいないと思っていたが、ただの強がり。自分の中で見切りをつけることを繰り返しながら、今日まで進んできた。

素数は、1とその数字でしか割り切れない数字をいう。

中学生のとき、ある大きい数字を2や3で割る問題が不思議に思えて、そのせいで全く答えを導き出せなかったことが悔しかった。どうして大きい数字を外枠からちびちびと減らされるのだろう?

小山内くんにとって、私は冷たい水に思えただろうか?ちびちびと君の気持ちをすり減らしていく素数なのか。わざとパスタを落として、話題を反らした卑怯な私に向けた笑顔は、見切りをつけたサインなのかもしれない。

吹きこぼれるように、涙が溢れてきた。

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