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「お休みの日は転職の準備してるんだ」

と、梓が急に言い出すので私はコーヒースプーンを受け皿に置くタイミングが少しずれた。そのせいで木製のテーブルに茶色い染みがいくつかできてしまった。

「え、何」

「何ってまりちゃんが聞いてきたんだよー?『仕事以外のオアシスが欲しいー』って」

決して大きくはないが、喋ると口から大量の飴が出てくるんじゃないかってくらい、高く甘い声が店内に響いたので、慌てて周りを見た。

いやぁ、まぁ、そうなんですよねーって。

私の中の「仕事ブーム」がそろそろ下火といいますか。twitterみたいにわぁっと人気に火がついて、後はマンネリ。
まだマンネリであればって思うのに、今度は人間関係の問題ときたもんだ。

私自身細かいことには気が回らなくて、むしろ短期集中型のスタイルが好きだったくらい。職場に黒くて粘着性のある空気のようなものが溜まっているな、と感じていたもっと前から、「そういう雰囲気」だったそうだ。

「んー最近会社に行くのが億劫でさ」
「えっ、みんな会社に行きたいもんなの?」

梓はカフェオレをくるくるとスプーンでかき混ぜている。何気ない一言で、しかも目も合わせないからむっとしたが、短気で損気な私は、そこはぐっと抑える。思わずぬるくなったコーヒーを飲み干すと、あり得ないくらいドロッとした苦みが喉に流れた。

ああ、おかわりしたい。

いっそのこと、さっきから減っていない梓のカフェオレを奪ってやろうか、と真面目に考え始める。目の前で一気に飲んでも怒られない気がする。

「別にさ。転職したいわけじゃないんだけど」梓はスプーンを静かに置きながら言った。

「はい?…ああ、さっきのね、転職活動?」お冷を貰おうと、店員を目で探しながら答える。梓のカフェオレは泡を浮かべながらくるくる回っている。

「仕事行きたくないー辞めたいーって思ったら私咄嗟にスマホで転職サイト見るんだよね。あと帰りの駅のホームでも情報誌とか手に取るんだよね。いつの間にか溜まりに溜まって、休日はそれで時間がつぶせるの」

「…梓の口から、そんな言葉が出ると思わなかった」喉の乾きが一瞬で退いて、私は梓の顔を覗き込んだ。え、この子熱あんの?

「えっと、ごめん。どんな言葉?」

「梓って仕事好きってイメージはないけど、まさか辞めたいまでは」

梓は目を少し丸くした。「みんなそうじゃないの?いや絶対そうだって。まりちゃんもやってみなよ」

私は吹きだした。「やってみるって、休日に?それで本当に転職するの?できるの?」


「いや、しないよ。てか、できないよ」


梓の一言で、喉の乾きどころか身体中の水分が、ざぁっと退いた感覚に陥った。たぶん笑ってない私に、梓は続ける。カフェオレを再びかき混ぜながら。

「だって本気じゃないから。仕事が変わっても、お給料が増えても、しばらくしたらずっと同じ繰り返しだよ。私気づいたよ。小学校も、中学校も、高校も、大学だって、その節目は『変わった!』って思った日もあったけれど、やっぱ、変わんなかったよ」

店員がこちらに気づいてお冷のお代わりを入れてきた。梓は愛想よく軽く会釈しながら、「ありがとうございます」まで言っていたが、私は何も言わないまま、グラスをただ見つめたままだ。

ああ、なんて甘いんだろう。

自分のコーヒーカップに視線を落とすと、あり得ないくらいに、底にドロッと黒い塊がこびり付いていた。

たぶん、それはすごく甘いのだろう。



「ごめん、この後、会社に行かないといけなくなった」と、下手すぎる嘘をついて、梓と別れた。

私はトートバッグから携帯を取り出し、メッセージアプリを開いた。名前を探し、そっと耳に当てる。初めて休日に電話をするので、緊張して声がおかしくならないか不安になる。

「あ、もしもし?お疲れ様です。今ひょっとして会社にいる?」

相手の声は、驚きと、少しばかりの困惑を混じらせていたが、底に溜まった沈黙をかき混ぜるように、思い切って提案した。

「会社の近くに新しいカフェが出来たの。そこのコーヒーすぐぬるくなるんだけど、すごく味が濃いの。今から飲んでみない?」

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