無題

「今日は家帰ったら小説書くか」

そんな意は帰宅と共に……厳密に言えば、その帰路途中に体力的にも精神的にも底を突いて霧散した。執筆段階の今日、2021/06/09は色々あったしね。仕方ないよなぁと思いつつも、だからと言って見る配信も無ければ見る気力もなくて完全に手持無沙汰だったから、ふと思ったこと……というかは改めて自覚したことに関して一つ記しておこうと思います。

まず一つ先に謝っておくとすると、これ以降の話は完全に個人の感覚の問題です。「あぁ、こういう考え方もあるんだなぁ」程度に読み流していただけると助かります。気分を害したらブラウザバックしてください。互いにとって良好な距離感を築こう。


率直に本題に切り込むと、苦手……というか、「なんというかそれは“違う”んじゃないか?」って言葉があることに気付いて。それが何なのかというと、


「推しは推せるときに推せ」


誤解を招かないように弁解しておくと、これ自体は全く悪い言葉ではない。どころか、こうして昨今ネットスラングとして蔓延っている以上、ある種の真理を突いている良い言葉だと思う。

だけど、やっぱり何処か“違う”んだよなと今回の件で再確認した。そのことを纏めるために、まずは私なりのこの言葉の持つ意味とその他諸々を記した後に違うと感じた理由を連ねてみる。


前提として、この言葉の持つ意味は私は「推しは推せるときに推すべきである」。言葉の一言一句そのままが意味を表していると考える。これに関しては流石に異論がない……と思う。

そして、これが今回のミソである部分だと思うのだが、この言葉は自分から誰かへ向けたものではなく、自分から自分へ向けたもの。俗に言う“自戒”の意を持つ言葉だと思っている。気になっていたあの時から推していれば、もっと前から推していれば。そんなたらればに対する戒め。

この思考を基にTwitterを見ていると、自戒から教訓と言えば聞こえはいいけど、なんだろうな……個人の受け取り方によるみたいなところもあるけど、なんとなくこのマインドの押し付け?みたいな感じがしなくもなかったんだよな。

ただ、これだけだと「言葉を無理矢理押し付けられる感じが苦手」という可能性も無きにしも非ずなわけで。そういう訳ではない……いや、勿論無理矢理押し付けられるのは嫌だけど、今回の話に深みを持たせるためにあの言葉についてもうちょっと話を進めよう。


違うと思う理由の一つとして、論点が違うというか。推したところで何になるの?っていうのがある。……いや、あれだな。これは明らかに言葉足らずで語弊を生むから説明するけど、先述の太字の言葉は「推すことによるメリットを問うている」のではなく、「推しました→推しがいなくなることが確定しました→?、の?に入る部部分を問うている」文言の意を持つ。

これでも苦手な理由が分かる人には分かる気がするけど、それは多分同じタイプの思考で同じタイプの疑問を抱く人に限定される気がするので二つの例を比較してみてほしい。

まず一つ目が、気になっている人を推す前にいなくなることが確定した世界線。これに関しては、「推しは推せるときに推せ」という言葉が痛いくらいに刺さるし、悲しいと思う。というか、こういう状況を前提として作られたスラングだろうから当然と言えば当然。一つ揚げ足取りみたいなことを言うとすると、気になっている状態の対象を“推し”と称して良いのかは甚だ疑問だけど、今回に関しては話として脱線し過ぎるので割愛。

二つ目は、己がキャパシティを割けるだけ割いて推した上でいなくなることが確定した世界線。前述の例と大きく違うのは、推しているか推していないか。その一点だけなんだけど、いなくなるという結果を迎えた時、そこにあるのは“悲しい”という感情だと思う。そこに加えて、今まで入れ込んでいた分の反動が生まれてもおかしくない。


この時点で私の言いたいことを感覚的に分かってほしい。多分、とりとめのない思考でなんとかまとめると、どちらにせよ末路は変わらないと思うんだよな。

だって、絶対に推し満ちることは無いわけで。何を以って“推し満ちた”と言えるのか? それが明確な基準を示せないどころで、推すという行為に限界点はない。ひたすらに“もしかしたらまだ限りある時間の中で推せたのかもしれない”というたらればに縛られながら、後悔することになる。推したか推してなかったかの差で変わるのは、そのたらればの中身だけなんだよな。

仮によ、推し満ちたと言える基準があったとして。その基準に達して、推しがいなくなる事実が発表された時に悲しくならないかって言われたら「それは違う」ってなるじゃん。そうなんだよ、違うんだよ。関連してるように見えて、関連してない。

クソどうでもいいカミングアウトをすると開幕10行くらいからお酒入れて脳内をそのまま原稿なしでアウトプットしてるから私自身何が言いたいのか訳わからなくなってきたんだけど、この言葉は他人に向けるべきではないと思う。自己完結するべきタイプの言葉。少なくとも傷心してる不特定多数に向ける言葉としては不適な気がするんだけど……でも、同時に間違ってる気がしないというか。ある意味、こういう場合でもない限りは戒めの楔として打てないのか。そんな一つの言葉をひたすらに考察してみた話でした。

こんな感じで、普段当たり前のように使われている言葉も改めて振り返ってみると新しい気付きがあるかもしれないですねというところを着地点としておこう。これ以上は本当に言い分がばらばらになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?