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14. 本で冒険する! 『話者の言語哲学 ―日本語文化を彩るバリエーションとキャラクター』 くろしお出版 2017

日本語を出発点とする言語哲学

筆者は何冊か英語の学術書を、アメリカ、イギリス、オランダの出版社から出版していただいているが、それらの書物には、必ずJapaneseという表現がタイトルに付く。これは、原稿の査読者がしばしば提案する点であり、出版社の要望でもある。しかし、英語についての学術書には、Englishという表現は使われないことが多く、それが当然のこととしてまかり通っている。これはなぜだろう。実は、筆者はこういう現場で(勝手に?!)傷つき、不可解であると独り言を言い、腑に落ちない思いでいっぱいになる。

まず、この問題を理解するには、言語研究、日本語研究という学問が、特殊な分野であることを認めておく必要がある。つまり、日本語研究においては、分析に用いるメタ言語(特に形式言語でなく、自然言語を用いる場合)と、分析の対象となる現象が同一のものである、という点である。日本語で日本語を論じるという芸には、困難と矛盾がつきものである。もちろんこれは英語で英語を論じる場合も同様である。ところが、英語で日本語を論じるとなると、提唱される理論やアプローチが、日本語という特殊言語にのみあてはまると理解され、そういう作品として扱われる。ただ、筆者は思う。英語の出版物の場合、英語という特殊な言語の分析であるにもかかわらず、Englishという表現がほとんど使われていないのは不公平ではないか、と。英語で英語について提唱される知の種類はユニバーサルなもので、他の言語・文化にもあてはまると(当然のごとく)想定されているのである。確かに英語は世界の共通語であり、重要な地位にあることは否めない。そうであっても、筆者は英語で日本語研究を発表するという行為が、外国語で原稿を準備するという困難さに加えて、何か、欧米主義のヘゲモニー、覇権主義に隠された偏見の対象になっているように感じている。

この現状を超えるためには、日本語研究は、言語研究という潮流の中のある位置(できれば中心的な)を占拠し、このグローバル化した学問の世界に通用する言語理論の再考、再評価、そして新たな構築、に貢献する必要がある。本書で筆者が試みるように、研究のテーマが言語の主体、つまり話者とは何か、という哲学的な問いであれば、なおさらである。日本語をメタ言語とする学問であっても、特殊なものとしてではなく、言語研究の一部として、権威的な学問にチャレンジすることができるのが理想である。

話者の言語哲学 ―日本語文化を彩るバリエーションとキャラクター』は、このような背景のもと、伝統的な一部の西洋哲学にチャレンジしながら、あえて日本語の話者の哲学を、日本語で執筆した学術書である。(筆者は、最近の英語の著書でも、同様の試みをしている。オランダのBrill社から2022年に出版された『Rethinking the Self, Subjectivity, and Character across Japanese and Translation Texts』である。この書物では、あくまで日本語はデータであり、本のテーマは日本語に限定されないことを主張した。)

「話者複合論」という冒険

筆者は本書で、「言語行為をする主体、つまり話者とは何か」というテーマを追う。分析にあたって「キャラクター」と「キャラ」という概念を応用し、その言語使用を「キャラクター・スピーク」として日本語表現を分析する。より根本的には、考察の対象となるディスコースの言語現象から、日本語における主体・話者という概念に迫り、ひいては言語行為をする私達自身を理解しようとする試みである。データとして選んだのは、ライトノベル、ケータイ小説、テレビ・ラジオのトーク番組、テレビドラマ、少女マンガという5つのジャンルのディスコースである。

特に焦点を当てるのは、言語のスタイルを含むバリエーションである。具体的には、会話分析で明らかになった会話行為やストラテジー、社会言語学や語用論のテーマである方言やジェンダーを想起させるバリエーションやそのシフト、談話研究のテーマと関連するモノローグやレトリックの綾などの諸相である。

筆者は、これらの言語表現が根源的には私達の自己表現や演出のツールとしてあり、話者がアクセスできるリソースに他ならないという見方をする。そして脱・非デカルト的視点のもと、言語行為とは、主体的にしかも状況や必要性に応じて使い分ける重層的なパフォーマンスであるとし、話者をその複合性という概念で捉える。

話者についての問い掛けは、我、自己、自分という永遠の哲学的テーマに繋がっている。本書では、話者の根源を日本の哲学や宗教が前提とする絶対無の空白の場所における自己と認識し、それを埋める複数のキャラクターやキャラとして多重的・流動的な存在であると捉えていく。自己が解放されているからこそ、そこには多くの話者が具現化し、バリエーション豊かな表現を通して複数の話者が登場するのである。話者の概念を探求する過程で、日本の学問・文芸から、西田幾多郎、和辻哲郎、森有正、平野啓一郎、そして宮沢賢治にヒントを得た。筆者の「話者複合論」は、これらの伝統と、脱・非デカルト主義を主張する西洋思想を背景に論じたものである。

本書でテーマとする話者とは私達自身であり、それは定着し孤立したデカルト的我として存在するわけではない。日々、それぞれの瞬間を重ねながら、私達は変動する自分を表現し演じ続ける。それはキャラクター・スピークとしての言語を利用することで可能になり、そのプロセスで複数のキャラクターやキャラが設定される。この意味で、言語は私達にどんな自分をも創り得る力を与えてくれる。自分はひとつではなく、ましてや社会によって規制されるのではなく、揺れ動く複数の側面を持っている。そこに認められる話者の複合性は、私達がひとつの固定された自己という息苦しさから逃れ、自由になることを可能にする。本書で展開する話者複合論は、がんじがらめになった自分ではなく、社会に拘束されつつも、それを打ち破って幾つもの自分を生きることができる世界への招待状である。

西欧へのチャレンジ

西欧の学問は概してヘゲモニー的な独我論に陥りがちであった。もっとも、西洋の学問の伝統においても、またいわゆるポストモダンの流れの中でも、伝統的な西洋の学問を根本からゆさぶる批判的な立場が、内部から多く生まれているので、「西洋の学問」といっても、それを単純に扱うことができないのは周知の通りである。そうであっても、西洋の学問への信頼とその影響力の強さは無視できない。日本語研究との関連性においても、研究者は西欧の理論をありがたく(?)受け入れる伝統があり、現在もその傾向が認められるように思う。明治以降の学校文法の不自然さは言うに及ばず、理論言語学や認知言語学にしてみても、日本語にうまく応用できない点があるにもかかわらず、当然のごとく世界に通用する学問として提唱され、また、日本の学識者もそれを受け入れてきたように思う。一方、例えば語用論の「場」に関する枠組みを提唱する立場もあるが、その場合、往々にして伝統的な(膨大な)日本における学問の業績を踏襲しないまま、あたかも新しい理論のように装うこともなきにしもあらず、なのである。未だに日本・日本語から説得力のある理論を発信することが十分に成されていないことを考えると、日本と西欧の両者の学問の流れを広く深く学び、振り返りながら前進するという作業の必要性と緊急性が大きく浮かび上がる。

私たちは、複数の知のあり方が、インターネットを含む様々なメディアを通して、グローバルな舞台で競われる時代に直面している。そのような時代にこそ、日本と日本語を出発点とする研究が、何らかの答えを提供することができるように思う。本書で論じる話者複合論に代表される言語哲学の立場は、従来の言語理論を覆すことになり、それはある意味危険な作業であるかもしれない。しかしそこに学問のオリジナリティが隠されているのであり、それこそが、日本・日本語から世界に向けて発信できる新しい知の姿のひとつになり得るように思う。 

クジラ的日本語研究 

筆者の書斎には、くろしお出版さんからいただいたブックバッグが飾ってあり、それには、例のジャンプするクジラのロゴが描かれている。実は、筆者はくろしお出版さんとクジラの関係、そのロゴの由来を知らない。しかし、筆者なりのクジラの思い出が幾つかある。そんな個人的な思い出をクジラに繋げて、日本語研究の夢を語ることはできる!

最初の思い出は、AFSで留学していた高校生の時、マサチューセッツ州 New Bedford にあるNew Bedford Whaling Museumを訪れ、どういうわけか、サメの歯の標本をおみやげに(?)買ったことである。

二番目は、ハワイ大学に勤務していた頃、マウイ島のラハイナから、ホエールウォッチング観光をし、クルーズ船に乗ったことである。ラハイナからカアナパリのあたりを回る夕暮れのクルーズで、水しぶきを立てて海面をダイナミックにジャンプするhumpback whales ザトウクジラの姿にMai Taiでほろ酔い気分の観光客が歓声を上げていた! 私は酒類は苦手なのだが、それでも感動して騒いでいた!(残念なことに、2023年8月のマウイ島の山火事は多くの犠牲者を出し、ラハイナの街並みは壊滅的な被害を被った。クルーズ船の乗り場があった広場の多くの歴史的建造物も焼失してしまった。想像を絶する惨事であり、残念でならない。)

三番目は、ニューヨーク州、ロングアイランドの東の果て、Sag Harborという町のThe Sag Harbor Whaling and Historical Museumを訪れたことである。ここでは、捕鯨活動をしている日本を非難するビデオを見せられた。クジラの血で赤く染まった海なんかを目の当たりにし……

現在残されている日本の捕鯨は、大切な伝統文化であること、それに対する自然保護団体の根強い反対運動があること、は、さておき、クジラはグローバルなスケールで回遊する哺乳動物である。クジラにとっては、日本の海とかハワイの海という感覚はないだろう。そんな自由な生き方をするクジラにあやかって、日本語研究も世界の学問の海を自由に回遊することはできないだろうか。『話者の言語哲学』を日本語を出発点とする言語哲学の試みとする筆者の冒険は、この本の出版で終わったわけではない。新しい言語へのアプローチや異なる言語を礎にした学問が、大海原を旅するおおきなうねりとなって広がるイメージは、確かに単なる夢に過ぎないかもしれないが、希望として掲げることには意義がある。


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
泉子・K・メイナード
『話者の言語哲学 日本語文化を彩るバリエーションとキャラクター』 
くろしお出版 2017
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