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10. 本で冒険する! 『日本語教育の現場で使える 談話表現ハンドブック』 くろしお出版 2005

談話分析と日本語教育

筆者は、上級の日本語コースを受け持つようになって久しいが、日本語学習者の誤用で、特に気付かされる現象がある。指示表現についてで、その誤用は一人や二人の学生ではなく、何年にもわたって何回も繰り返されている。指示表現は初級の段階で登場し、真面目な学生は教師の説明を納得してよく覚えているのだが、中・上級に進むにつれて、初級の説明では十分でないため、誤用を繰り返すのである。

指示表現の問題と時を同じくして、会話分析、談話分析、談話言語学という流れが一応固まってきたと思われた頃、筆者は、談話分析の研究結果を日本語教育に応用するための参考書が必要なのではないか、と思うようになっていた。中・上級に進むにつれて、従来の文法では扱いきれない問題点が多く、むしろ初級の日本語文法には、誤解を招くような簡単な説明がなされているのではないか、という思いに駆られていた。『談話表現ハンドブック』は、日本語教育に従事する方々、また上級の学習者の方々に、文の文法ではなく、談話の法則についての情報を提供することを目的にまとめたものである。

本書は、談話に焦点を当てるという意図から、大きな単位(談話)から小さな単位(語)へと順に紹介している。つまり、談話構造の基礎から始め、次第に節と句の操作、語へという流れで構成されている。これは、従来の日本語の文法が小さい単位から大きい単位へ、という構成になっていて、どうしても談話が後回しとなるのに全力で抗った(!)結果である。

具体的には、次の項目をカバーしている。談話全体の表現性には、談話の内部構造、段落の構成と機能、文脈と語の連鎖、統括と要旨、トピック構造とステージング操作が含まれる。ジャンル別談話の表現と構造に関しては、ジャンルとジャンル間の交渉、物語の構造と視点、意見文・コラムの構成、報道文の表現と構成、質問文と返答意見文の構成、マンガ・アニメの世界、俳句・短歌・川柳の表現、現代詩の表現など、各種の談話現象を扱う。談話のレトリックに関連して、ダ体とデス・マス体、スタイルシフト、乱暴ことば、借り物スタイル、「である」と「だ」の混用、「なる」的表現を、談話表現の綾として、繰り返し、省略、メタファー、トートロジー、アイロニー、余情、ユーモア・駄洒落、ことわざ・慣用句を紹介する。

文表現では、文のタイプを中心に、現象文と判断文、描写文・説明文とコメント文・非コメント文、動詞文・名詞述語文・分裂文、受身文、否定文、疑問文・内的疑問・宙ぶらりん疑問節、反語と修辞疑問文、否定疑問文、感嘆文、の説明をする。加えて、前置き、接続表現、談話を管理する操作、トピック提示の表現、体言止め、「だ」・「じゃない」表現、「のだ」文と「のか」疑問文、ル形とタ形、そして終助詞「ね」と「よ」、を扱う。最後に節と句の操作について、修飾節の効果、引用、語順と文順、独立(感嘆)名詞句と付託、モダリティ副詞:「やはり」・「やっぱり」、指示表現、一人称表現とアイデンティティの関係、と、実に数多くの現象を紹介する。(リスト、長っ! このプロジェクトも、いつものことながら、思っていたより膨大なデータの扱いに悩まされ、扱う項目が増える一方になってしまった! 苦笑)

談話における指示表現

コラムの冒頭で触れた指示表現について、本書では、どのような説明をしているか、簡単に復習したい。問題は、学習者が、ソ系指示詞を使うべきところにア系を用いることである。例えば単に場所を指す目的で「渋谷に行きました。*あそこで友達に会いました」とアを誤って使う類である。「渋谷に行きました」の次には、先行する文の結束性を狙って、心情的に中立の「そこで」が選ばれる。英語を母語とする学習者の場合には、対応する英語の指示表現here, there, over thereまたは、this, it, that をそのまま訳してしまう傾向があり、そこに誤用の原因があることも少なくない。現場指示以外ではア系は、話し手の知識や記憶の中の心的イメージに対する情意を表現すること、そして心情的な思い入れがない場合はア系を避けることを忘れずに指導する必要がある。アは遠いものを指すという説明では不十分なのである。

中・上級では、日本語の指示表現に現場指示と文脈指示があることを確認する必要がある。もっとも、それぞれが別のシステムというわけではないのだが、基本的に話し手が現場にいる場合と、そうでない場合を分けて考えることができる。現場指示では、話し手に近いものはコ系、聞き手に近いものはソ系、両者から離れている対象にはア系、という性格付けが可能であり、この場合話し手がいる現場の距離関係が基準になる。

しかし、実際の会話の中では、考えたり思い出したりした内容を物語のように語ることが多く、その場合には文脈指示の表現を使うことになる。文脈指示の表現は、現場指示の意味を反映しながらも、むしろ語り手の態度や情意を伝えるストラテジーとして機能することが多い。日本語教育では、この文脈指示の説明が不十分なことが多いため、上記のような誤用を生んでしまう。なお、文章は文脈指示だが、例えば小説などに出て来る会話では、その現場を想定した現場指示も使われることにも注意したい。

ここで、コ、ソ、アの基本的な機能をもう少し詳しく見ておこう(長くなります、ごめんなさい)。コ系の指示表現は、基本的に語り手と内容が近いという意味を伝え、間接的に語り手の位置を示すことになる。語り手は、言語行為も内容も身近で親しく、大切なものと捉えていて。そのような捉え方を相手にも求めるというアピールの仕方をする。

ソ系の指示表現は、基本的に語り手がある距離を保つ態度を示し、そのような位置から対象を描写することを伝える。談話の結束性を可能にしながら、あくまで先行するものとの中立的な距離感を保つ態度を表現する。

ア系の指示表現は、対象が遠いところにあるとしても、語り手の心情は近く、親しい・懐かしい・いまいましい・残念だなど、感情的な思い入れがあり、そのような情意を伝えることになる。ア系は自分と相手の記憶や想像の中に、共通の感情の対象となるものを共有することによって、共感を促すのである。なお、この対象は相手の記憶の中に認められるものもあるが、ただ漠然とした思いに過ぎないものもある。

一般的に、ア系は、話し手と相手がともに既知の情報について使うという説明がされるが、さらにより詳しい説明が必要である。「あの」は読者との共感を狙うストラテジーとしても使われるからである。その例として宮沢賢治の「よだかの星」(『銀河鉄道の夜』新潮社1961)の「よだかはその火のかすかな照りと、つめたい星あかりの中をとびめぐりました。それからもう一ぺん、飛びめぐりました。そして思い切って西のそらの、あの美しいオリオンの星の方に、まっすぐ飛びながら叫びました。」(p.24)がある。ここでは「美しいオリオンの」でも不自然ではないのだが、よだかが向かっていく空に浮かぶ星座に読者との共感を促すために、「あの」という指示表現が使われる。厳密には「あの」は何かを指すというより、何かについての感情を込めた情意表現である。 

追記: ア系の指示表現は、何かを指示したり指示することを装うソ系と違って、具体的に指示するものがなくても使われることが日常化している。例えば、急に相手にも何なのかわからないのに「あれ、あれをとって」というような類である。実際ア系の指示表現が、「あのう、ちょっとお尋ねしますが」というように発話の前置きや埋め込み表現として間投詞のように利用されることを考えると、ア系が何かを指し示すと性格付けるのは、正確ではないのかもしれない……

あくまで個人的な事情

本書には、505ページにわたる情報が詰め込まれている。そんな大量の内容を途中で断念することなく(?)読んでいただくために、幾つかの工夫がされている。章扉に筆者が描いたアメリカ各地の小さな水彩画スケッチを加え、息抜き(?)に役立てていただくこと、また「Maynard’s viewちょっとひとこと」、「先行研究をチェック」、「ここがツボ」など、本文を幾つか読みやすい部分に分けることで、あきらめずに読んでもらえるように構成されている。これは、くろしお出版さんのアイデアであり、読みやすいデザインにしていただいたことで、500ページを超える本も、圧倒的な感じではないと筆者は感謝している。ただ、並製本であるにもかかわらず、当然のことながら重い! 英語では、あまりにページ数が多く、重い本は、doorstop book または doorstopper(戸止め、戸当たり)と言われることがある。少なくとも読む以外に利用価値があるというジョークなのだが、著者にはドキッとするコメントである(苦笑)。本来の目的で使われ続けることを祈るのみ!


■この記事の執筆者
泉子・K・メイナード(Senko K. Maynard)
山梨県出身。AFS(アメリカン・フィールド・サービス)で米国に留学。甲府第一高等学校およびアイオワ州コーニング・ハイスクール卒業。東京外国語大学卒業後、再度渡米。1978年イリノイ大学シカゴ校より言語学修士号を、1980年ノースウェスタン大学より理論言語学博士号を取得。その後、ハワイ大学、コネチカット・カレッジ、ハーバード大学、プリンストン大学で教鞭をとる。現在、ニュージャージー州立ラトガース大学栄誉教授(Distinguished Professor of Japanese Language and Linguistics)。会話分析、談話分析、感情と言語理論、語用論、マルチジャンル分析、創造と言語論、ポピュラーカルチャー言語文化論、言語哲学、翻訳論、日本語教育などの分野において、日本語・英語による論文、著書多数。
くろしお出版から刊行の著書

■この記事で取りあげた本
泉子・K・メイナード『日本語教育の現場で使える 談話表現ハンドブック』2005刊 くろしお出版
出版社の書誌ページ

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