見出し画像

優しさにつけ込む・つけ込まれるということ

こんにちは、わたしの三連休はそろそろ終わりを迎えようとしていますたのしかった。連休最後に最近思うことを文章にしたいと思います。

わたしの話ではないし、ご本人を知っているわけではないので、その人どうこうというお話ではないのであしからず。

ツイッターである人をフォローしているのですが、その人はとてもねこがお好きなんですよ。自分ができる範囲で、自分がその時にできることを、ねこ達が幸せになるようにと行動されているのですが、あくまでその人の良心で行われているのであり、保護活動家でもなんらかの保護団体に属している方ではないのです。ただ、ねこ達が幸せになれるように、幸せへのきっかけをつかめるようにと、「いまの自分ができることを」されているとツイッターでは仰られていました。

わたしは同じ猫好きとして、ただただ影ながらエールを送ることしかできないのですが、わたし自身仕事でのモットーが「できることをできる範囲する」なのでひとつの線引きを持って取り組まれているところなんかに勝手にちょっとした親しみを持っていました。

その人がツイッターで、自分宛に「飼っていたねこを引き取ってほしい」と依頼があったとかエサをやっていた野良猫が子どもを産んだから引き取って欲しいとか相談が入るんだと呟かれていました。もちろんその人は仕事もしているし、保護活動家でもありません。また、いまもその人の元には里親に出す子猫達が何匹もいるのに、です。

相談に対し、自分ができることの許容量を超えていると断ると逆ギレする人もいるそうです。なぜ他の相談は受けるのに自分のは受けないんだ、猫が可哀想ではないかと。

この件に関してだけではありません。一回仕事を引き受けたら何度も頼まれて断れなくなってしまっている、なんて話も聞いたことがあります。

人にはその人の特性があり、一定の考えがあるものなので行動に概ねの一貫性が生まれます。ただ、それはあくまでもその時の状況がフラットな状態だから行動が一定化されるだけであり、状況が変われば行動も変化します。それはなぜか、自分自身が潰れてしまわないように自己防衛反応でもあるのだと思います。

つまり、相手の行動が変化した場合、なにかしらの事態が起こっていると捉えても良いのです。まぁあくまでもわたしの考え方ですが。

閑話休題。ツイッターでその人をみていると、本当に猫が好きなんだな、幸せを願って行動されているんだなと感じます。もし自分の願いを受けてもらえるかもしれないと感じる人であれば一層「そう」見えるんだと思います。だからこそ、はたから見たら無理難題な相談なんだと思うことでも「この人なら受けてくれる」と頼んでしまうんでしょうね。(というか、そもそも最後まで責任が持てないのであれば相談云々の問題でなく最初から余計な行動も感情移入もしなければいいのにと個人的には思いますが。野良猫を拾うという行動にしても、その時に感じた可哀想という感情だけで後先考えずに行動する身勝手な人がいるから犠牲者(こういう場合は相談をされた人と野良猫)が増えるという事態になるのです。)

SNSでは、人の優しさも卑しさも簡単に表現されるようになっています。自分が思ってもいない捉え方をされることもしばしば起き得ます。現実でも一緒ですけどね。

優しさを持つことも、表現することも、行動することも、いけないこととは言いません。むしろ、優しさがあるからこそ世界は回っているのだとも思っています。ただ、表現の仕方には気をつけたほうがいいのかもしれません。都合がいいように解釈してしまう人とのいうのは一定数存在しているのですから。

人の優しさは、その状況だからこそ行動され、表現されることを忘れてはいけないと思います。また、表現する側も自己防衛という面から言って気をつけるべきだと思います、こんな世の中ですしね。

そう考えると、世知辛い世の中だなと少し物悲しい気持ちになってしまいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?