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武富健治先生『古代戦士ハニワット』勝手に応援企画(12)コラム⑪正春

1 嫌われキャラ正春

 正春(まさはる)は『古代戦士ハニワット』(以下『ハニワット』)の登場人物の中でも屈指の嫌われキャラです。あるいは「唯一の」と言ってもいいかもしれません。正春は仮具土の埴輪徒という戦士の役割を与えられながらもとにかく女性からの人気がなく、一部数名の読者からは「死んでほしい」という声まで飛び交う始末。その理由は「常にイライラしている」「わがまま」「情けない」「主巫女(アチメ)のエリのことを思い出さずに、呉葉(くれは)に甘えている」など、男としてだけでなく、人間としてもどうかと思われる言動を繰り返すからです。造形的にも背が低く、坊ちゃん風の風貌も評価を下げる原因でしょう。最近は彼の成長を期待する声もぼちぼち出始めてきました。

 ぼくも御多分にもれず、正春が好きではありませんでした。しかし柔里、凛と書き継ぎながら、正春に対するぼくの心境の変化があらわれてきました。「かなり好きかも」、あるいは「めっちゃ好きかも」というレベルです。「柔里」編、「凛」編を書いただけでなく、『ハニワット』「鳶鳴き、変容」(9.2.40)を読んで、正春の抱えている問題、正春に象徴される問題について自分なりの見通しが立ちました(正春成長物語ではないです)。その辺りを中心に正春について書きます。第9巻までの内容で書いているので、単行本派の人も安心して読めると思います。

2 正春の登場

 正春の初登場は「ドグーン漸進」(1.1.2)です。まだキャラクターの書き分けが安定していない段階なので、判断に難しいのですが、おそらく間違いないでしょう。仁から蚩尤出現の電話を受けた陣九郎(権宮司)が、「わかった!正春を立てておくがお前も早く戻れ!」と応答し、横にいた正春は「仁さんからですか?」と聞き返します。この時の正春の服装は神職の普段着で、これが正春の初めての台詞です。ここで注意したいのは陣九郎の言葉です。つまり『ハニワット』最初の蚩尤収めは仁ではなく、正春の可能性があったといことです。ここは読み落としがちな部分です。なぜ正春の可能性もあったのか?それは仁が三角頭をみて「新しいやつだ…!光撃型か剣技型に見える…不明‼」と陣九郎に報告しているからです。この時、陣九郎の脳裏に浮かんだのは光撃型=正春、剣技型=仁という「作戦」でしょう。

 ところが、戸隠神宮・中宮に戻った仁と陣九郎はモニターを見つめながら、蚩尤の臍(へそ)の形状から静岡に出た蚩尤と同型の「剣技型」の一択に絞りこみます(仁の解釈を陣九郎が同意する。「二つの神輿」1.1.3)。これが全ての問題の始まりだったことは物語が進展することによって判明します(本当の始まりは違うのですが、今はそう書いておきます)。その結果、一の駒は仁に、二の駒は正春に変更されます。このエピソードでは、正春は服装を蚩尤収めの正装に着替え、主巫女のエリと共に登場。明らかに出撃するムードでしたが、彼はエリと共に宝光宮の待機に回されました。こちらの印象が強いと、正春は最初から二の駒と思い込みがちですが、さきほどふれたように、正春は三角頭戦いで最初に出陣する可能性があり、さらに言えば犠牲になったのは仁ではなく、正春の可能性も高かったのです。これが正春に相当の精神的なダメージを与え、以後、正春の言動の不安定さは全てここに起因します。

3 正春にとっての仁

 『ハニワット』本編では、正春と仁のエピソードは殆ど描かれていないので、二人(腐たり?)の関係を考えるのは難しいのですが、ごくわずかなエピソードからうかがえることは、結果的に仁は正春の身代わりとして出撃したということです。さらに踏み込みます。物語では仁から凛への主役の交代が印象づけられ、それが第1部を牽引していますが、その裏で正春から仁への交代という物語が存在することになります。「大事なことはさり気なく」。それが『ハニワット』の文法だと思っています。そして最もさりげなく描かれているのが、正春と仁の関係なのです。そう考えると、仁の敗戦を継承した凛と、仁に身代わりになってもらった正春とは見事に対照的な存在であり、仁が凛の影として登場するのであれば(「凛前編」を参照)、正春は仁の影として登場するのです。そして、彼は仁の影という役割を担わされ続けます(これについては後述)。

 さて正春と仁の信頼関係は安定感があります。着替えをすました正春は「仁さんが戻ったって⁉」と言いながら中宮の作戦本部に入り、仁は「おお正春!」と答えます(1.1.3)。この「おお」は「いよいよ蚩尤収めだな!」というこれまでの共に稽古を積んだ同志に対する気持ちと、正春の凛々しい正装を感嘆する兄の気持ちとが込められているのではないでしょうか。陣九郎から待機を告げられた正春は「はいっ!」と返事し、仁の出陣に何の迷いも持っていません。凛の出撃とは大違いです。ここからうかがえるのは、仁とのかかわりの中では、正春はとても素直であり、人を信頼する性格だということです。正春のこの部分は、あまり注目されません。ここから「エリが正春と付き合っている理由がわからない」という一部の読者の発言に繋がります。ぼくもそう考えていたので偉そうなことはいえませんが…。

 正春のエピソード史上屈指の名シーンは、仁の敗戦の後に泣き叫ぶ正春です(「蚩尤、再進」2.1.11)。4・5号車に待機していた正春は、3号車に運ばれた瀕死の仁を見て、「仁さん‼ 仁さん…なんで…こんなに…‼ みんな…もう一度弓を鳴らしてください‼ 舞を奉納(おさ)めて下さい‼ ボクが埴輪土に入って…仁さんのカタキを討ちます‼ 討たせてください‼」と。この危機的な状況にもかかわらず敬語。そして生命を顧みない勇気(蛮勇かも)。しかし、エリに埴輪土・布留の損傷を見せられ、さらに陣九郎の説得で、正春はようやく状況を理解します。今の自分にできることは泣き叫ぶことだけだと。正春…。

4 正春の闇堕ち=「導き」の読解

 仁の敗戦後、正春は仁の無念を晴らすために闇に世界に落ち込んでゆきます。大事なポイントなので繰り返しますが、仁の敗戦以後、正春は仁の影として生きることになります。仁自身には影は無いのですが、正春は影として仁の意志を引き継いでしまうのです。つまり、正春の「身代わり」として出撃した仁、その仁の敗戦をきっかけに正春は仁の影に堕ちてゆきます。これは正春の純真な気持ちがそうさせてしまったのだと思いますが、そう考えれば考えるほど、彼の幼さは必ずしも「苛立ち」に結びつくものではなく、純真であるが故に仁の意志を引き継いでしまい、その重みに耐えかねて「苛立って」しまうのだと思います。ここでは仁の影として生きる正春に注目してみたいと思います。明るく素直な正春にダークな兆候が表れるのは「導き」(2.1.15)というエピソードです。この「導き」の重要性は、「柔里編」「凛編」でも触れましたが、実は正春にとっても転換となる物語で、正春視点で読むと全く別の物語になるという作者の離れ業が発揮されるエピソードになっています(柔里、凛、正春の三視点が織り込まれ、その全てが仁の導きに関連するとい離れ業です!!)。本当に凄い。正春視点で「導き」を読むとどうなるのか。

 正春の役割はエリと共に車で、夢占(ゆめうら)に導きかれた柔里を彼女の実家(熊杉の里)に送迎することです。正春は、皮肉なことに仁の導きをサポートして、柔里を凛の下に届ける役割になるのですが、正春はそのことに気づいていません。柔里と凛を結びつけるのは仁なのですが、物理的に結び付けたのは正春なのです(正春の車の送迎がなかれば、柔里と凛はすれ違い、出会うことは無かったのですから)。仁の導きをサポートする正春。ここにも正春が仁の影であることが暗示されています(本当かよ!本当にそこまで計算していたのかよ!本当に凄い!)。正春はエリに促されて、戸惑いながらも、そして状況を掴めないままに柔里を彼女の実家に送ります。これに対して、エリは柔里が昨夜、夢をみたと想像しています。素朴な正春は、柔里の「家に―取りに行きたいものがあってさ」という言い訳を鵜呑みにしますが、エリは違います。実家の前で待とうとする正春に対して、エリは「なにか…夢のお告げで見たんだよ」「だいたいユリんとこはユリの入学と同時にみんなで大学の宿舎に移っているんだよ?あの家にモノを取りに戻るとか…このタイミングであり得ないよ」と、丁寧に状況を説明します。ここで正春は鈍感に見えますが、それは必ずしも悪いことではなくて、友人の鈍感さに人は助けられることもあるのです。おそらく、エリも正春の純真で鈍感なところに惹かれているのではないでしょうか。ところが、正春=「嫌な奴」というイメージだと、その鈍感さに耐えられない(笑)。

 さて、正春の以後の行動原理を示すエピソードが、この戸隠神宮の中宮から柔里の実家に至る道中に長々と描かれています。それは正春が「唯一」、『ハニワット』の登場人物の中で「真具土を嫌っている」ということです(「唯一」というのは正確ではなく、もう一人いるのですが…)。これが正春の行動原理の根幹にあり、この感情があるので正春は終始、真具土=凛に対抗意識を示すキャラクターとして行動せざるを得ないのです。それが最初に発露するのが「導き」というエピソードです。正春が真具土の凛を嫌う理由(この時点で会ってもいない)は二つあって、一つは仮具土の仁が蚩尤収めに失敗したにもかかわらず、その後輩である仮具土の自分が「かたき討ち」に参戦できない苛立ちです(もう一つは、「導き」ですでに明らかにされているのですが、それは後述することにします)。正春は仁の影である以上、仁の仇を討たなければ、影から光に転換することはできません。むしろ仇を討てないことが、彼を仁の影に落としているわけです。しかし、誰も(読者も)正春の気持ちが理解できないようです(登場人物たちも)。おそらく、仁敗戦直後の「みんな…もう一度弓を鳴らしてください‼…」という名シーンを覆い隠すほどに、正春の「苛立ち」「幼さ」が繰り返されようになるからだと思います(ぼくもそう読んでいました)。あの純真さが正春も本質の一つなのに…。

 正春の闇堕ちの最初のシーンは、エリの「ヤヨイ・オグナと美保の真具土の埴輪徒―車でこっちに向かっているんでしょう 今どのへんなのかな?」(2.1.15)という問い掛けを受けて、正春「その話はいいよ…!」です。車内を険悪なムードに巻き込む!凛の蚩尤収めの当時だというのに、正春にも準備が無い!(柔里にもまだありません)。正春の「布留の埴輪土があそこまで壊されてなかったら…仁さんのかたきは…絶対にボクがとったのに…‼」という怒り。ほとんど仁の敗戦直後と同じこと言っているだけなに、「真具土」というキーワードが絡むだけで、正春の闇感は半端ないです。さらに正春の真具土に対する嫌悪感が繰り返し繰り返し吐かれます。「けどさ…なんで第二戦で早々に真具土なんだよ⁉ そりゃあボクたち仮具土なんかよりずっとうまくやるんだろうさ‼」「大学の授業でも習ったじゃないか…! 真具土の埴輪徒が出るのは最後の最後…どうしても仮具土で対処出来ず手に負えないと諦めた時だって…」「ボクがだめでも…一年の時合同で合宿した山形の三沢っちや川辺たちだってよかったじゃないか…」「現に寺社会議はあいつらを送り込んでくれる方向で動いていたって話じゃないかよ‼」。もう重要な台詞が満載なのですが、正春は仮具土であることに誇りを持ち、真具土を嫌っていることは明らかです。仁の仇は「ボク」が、それが叶わぬ望みであれば仮具土(三沢、川辺)が。それが正春の行動原理であり、正春の「苛立ち」「幼さ」の爆発は、凛=真具土に関連した場合だけなのです。ここを見落とすと、正春はただ「苛立つ」「幼い」という印象しか残りません。仁の後継者(影)としての仮具土。それが正春の引き受けた生き方なのです。ただ彼には、その機会と能力がない…。

 

5 正春とライバル凛

 役不足に見えますが、正春は凛のライバルとして描かれているのは確実でしょう。仁の敗戦を引き継いで蚩尤収めに成功した凛、そして仁の意志を受け継ぎながらも出撃出来なかった正春。二人は見事に対照的に描かれながらも、存在感の違いからライバルに見えません。しかし、このライバル物語が以後の『ハニワット』を牽引する大きな物語になるはずなのですが、ここでは二人がライバル、特に正春視点からみた場合、ライバルとしか言えない関係にあることは間違いないことです。なぜならば、正春が「苛立つ」のは凛を前にした場合だけなのですから。ここも正春が嫌われる理由ですね。凛のファンは多いですから(笑)。しかし、『ハニワット』の中で凛とライバル関係を想定出来るのは、正春だけであり、そこには大切な意味があります。

 ここでは正春が凛に「苛立つ」シーンを幾つか追ってみます。最初に正春が凛に出会うのは凛の主巫女選びの場面(3.1.18)。この重要な儀式で流石に「苛立ち」ませんが、正春のみが下を向きささやかな抗議の姿勢をみせています。ここではまだ、正春と凛との直接的な対面は描かれていません。次に正春が凛に「苛立つ」のは、戸隠神宮の中宮で凛の蚩尤収めの生配信を視聴している最中です(4.1.26)。エピソード数を見てもらえればわかるように、正春は8話も登場しませんが、ここでもおそらく「苛立っ」ています(笑)。凛(伽耶)は三角頭に投げ飛ばされますが、仁とは違いビルの壁面で衝撃を吸収し見事に着地します。このシーンを視聴している戸隠の人々の理解の浅さに「苛立ち」、正春は凛の体技レベルの高さの技術解説を行います。ここで正春は凛の技術レベルの高さを単に喜ぶのではなく、「しゃくだけど」という余計な一言を挟んでいます。正春の真具土=凛嫌いには嫉妬も交じり始めたようです。

 極めつけは、仁の見舞のシーン(「エピソードⅠ」4.1.30)。仁に呼ばれて見舞にゆく凛をしり目に、正春は呼ばれていないことを「スネ」てしまい、凛に心配されています。これが「宿命」のライバルの出会いのシーンなのですが、もうライバルには見えない(笑)。主巫女のエリは正春の心情を理解しているようなのですが恋人同士でもあり、蚩尤収めに成功した凛に気を遣う方を優先させています。ここでエリの名台詞「やっぱ何年間も青春をつぶして頑張ってきたわけだし…気持ちはわかるんだけど」が登場します。しかし、エリ。そこだけじゃないんだ。正春は。そこだけじゃ(敢えてエリに苦言を申し上げます)。問題は「青春のつぶし方」なんだ。

 これ以後も凛の前で苛立つ正春には枚挙に暇ないのですが、正春の名誉回復にはならないと思うので、ご自身でご確認ください(笑)。

6 信州学院大学と寺社会議

 なぜ正春は凛=真具土に対抗意識を燃やすのか?この疑問を考えるために、戸隠神宮自体に目を向けたいと思います。それは信州学院大学の教育システム、あるいは戸隠神宮にその謎が隠されているからです。埴輪徒の教育システムは必ずしも学校教育を必要とはしていませんが、戸隠では大学を設立して教育を行っています。柔里の父、御衣乃陣九郎は戸隠神宮の権宮司であるだけでなく、戸隠学院大学の学長を兼任していることからも、戸隠では神社と大学とが一体になった教育制度を完備していることは明らかです。そして、この「近代的な埴輪徒の教育制度」は、エリの父、小滝修二も協力して出来上がったものです(8.2.28)。

 『ハニワット』「鳶鳴き、変容」(9.2.40)には、次のようなエピソードが描かれています。鳶鳴き(雉鳴き)の戦闘タイプが不明な段階で、川辺清高の祖父は、「さて 鳶鳴きがいったい何での戦いを選んでくるのかのう」と語り、呉葉の父が「ああ」とその言葉を肯定的に応じます。これに対して水谷さんは、二人とも鳶鳴きが「選択型」であることを前提に話をすすめていることに驚きます。なぜなら水谷さん(戸隠)の知識では、「蚩尤はそれぞれ一つの定まった好みの戦法を持っているてのが定説で―」というものだからです。しかし呉葉の父は、驚きもしないで「長野の蚩尤」もそうだったし、「我々の間に伝わる文書にははっぎりと書かれていた…‼」と、水谷さんの「定説」の疑わしさを指摘します。しかし、龍顔寺に伝わる「文書」を「偽書」と見做した「寺社会議」の問題に言及し、さらに「あなた方」=戸隠神宮もその「寺社会議」の見解を鵜呑みにしていたのではないのか、と穏やかに追及しました。

 このやり取りから推定されることは、蚩尤収めに関連する寺社の中でも、寺社会議に極めて近いしい関係にある寺社と、寺社会議とは一定の距離を保っている寺社が存在することです。前者は戸隠神宮であり、信州学院大学では寺社会議の見解を「定説」とした教育がなされているようです。後者がいうまでもなく、龍顔寺、あるいは蜂子三山神社などの山形の人々です。戸隠神宮の近代化(大学という近代的制度を完備)には、寺社会議と密接な協力関係にあることと無縁ではないのでしょう。このような視点から『ハニワット』を読み返すと、戸隠神宮の人々の台詞から、彼が寺社会議の見解を「定説」と「鵜呑み」にしていたことがうかがえるのです。第2節で紹介した三角頭の型(タイプ)の想定が、その典型です。陣九郎も仁も、三角頭を特定の型に特化したものという前提の下で推論を展開しています。「鳶鳴き、変容」(9.2.40)を介して読み直すと、仁の蚩尤収めの失敗の原因が、戸隠神宮=信州学院大学の教育内容にあることが分かります。つまり、戸隠神宮=信州学院大学≒寺社会会議の教育は「失敗」であり、そのつけを払わされているのが、その学生である/あった正春と仁なのです。
 
 蚩尤の型に関する知識に留まりません。埴輪徒の養成計画、つまり埴輪徒の個人の得意分野に特化する教育にも及びます。仁は剣技型、正春は光撃型という個別分野に特化し、彼ら自身もそれに誇りを持っているのです。このような「誇り」を増長させてきたのは、戸隠神宮=信州学院大学の教育プログラムにあるわけです。これに対して、蜂子三山神社のプログラムは違います。三沢祐樹、川辺清高、どちらもオールラウンダーであり、蚩尤は「選択型」、あるいは「自在型」である前提で育成されています。つまり、寺社会議と戸隠神宮(信州学院大学)の教育プログラムの失敗を象徴するのが、仁の敗戦(三角頭戦)であり、正春の不戦敗(猫鳴き戦)なのです。

 この他にも、戸隠神宮の寺社会議への依存体質を語るエピソードを散在します。その一つは、第4節で紹介した「現に寺社会議はあいつらを送り込んでくれる方向で動いていたって話じゃないかよ‼」(2.1.15)という正春の言葉。また陣九郎も寺社会議への依存しており、三角頭の型の想定に不安を覚えた今野の進言を受けて、陣九郎は「寺社会議の本部に連絡してくれ!」(1.1.5)と、今野に指示を出します。ここで陣九郎は采配を振るっているように見えますが、実際には戸隠神宮には準備が無かったことが露呈し、右往左往しているのです(陣九郎!)。このような戸隠神宮(信州学院大学)の寺社会議への依存体質がいつ始まったのかわかりませんが、少なくとも現在の責任者は御衣乃陣九郎であることは明らかでしょう。

7 正春と神原

 戸隠神宮の寺社会議への依存した教育こそが、真具土への対抗意識にも繋がっていて、それをダイレクトに受け取っているのが正春。また正春の他に、真具土に不信感を持つ登場人物。それが神原です。神原は若き日にオグナの演武に参加し、オグナへの対抗心を燃やしています(9.2.36)。正春対凛のライバル関係は、神原対ヤヨイ・オグナのそれが時代を超えて再現されたものでしょう。とすれば、正春は仁だけではなくて、神原の影でもあります。正春の「正」の字は、神原正雄の「正」を受け継いだのかもしれませんし(「五者会議」5.2.7)。
 神原は老成しつつあるので感情を露にすることは少ないのですが、初登場の「睡り」(3.1.19)で戸隠神宮にいるオグナと通信し、思いがけずオグナの会話することになり、動揺をみせます。そこで見せた神原の態度は、老成した正春が凛と再会した時に見せるだろう態度かもしれません。
神原は正春の蚩尤収めにかけつけますが(8.2.25)、結局、二人が会話することは一度もありませんでした。ですが、この正春戦の神原は、ところどころ子供っぽい仕草で観戦しているのが、彼の正春に対する感情を示しているように思います(8.2.26,27)。おそらく、埴輪徒に成りたての頃の自分を正春に投影していたのではないでしょうか?
 神原の真具土への対抗意識も枚挙に遑ないのですが、ここでは割愛し、神原について論じる時に譲ります。〔ここに追記しておきたいのは、正春が唯一無二の存在たらしめてるのは、正春と凛の関係だけが今のところ、仮具土対真具土という『ハニワット』の隠された大テーマを体現した存在だということです。今後、正春に代わる真具土に対抗意識を燃やす仮具土が登場しない限り、この隠されたテーマは描けないのではと思います。〕

8 「男には戦う時がくる…」

 凛のライバルを二重に引き受けた正春。仁の影として、神原の影として。仮具土を背負って。正春にスポットライトが当たる時は来るのか?彼が輝く日々は来るのか?来るとは断言できません。しかし来るとすれば、それは凛と戦わなければなりません。あるいは、凛を超えなければなりません。それが「男」というものです。神原は埴輪徒としては、オグナを超えるチャンスはなった。しかし、正春には可能性が残されています。「男には戦う時がくる。誇りを守るために命をかけて」。エリに別れを告げた正春には、その途しか残されていない。

 ぼくには正春の未来に「妄想」があります(もう一つあるのですが、それはいずれ)。ぼくの「妄想」は、闇堕ちした凛と戦う「埴輪土VS埴輪土」。凛が「ケガレ」に呑み込まれ、闇堕ち。その凛(ダークヴァージョン)を、正春が収めるという展開。テーマソングは「明日のジョー」の「美しき狼たち」。この曲は正春のためにあるとしか言えない(『明日のジョー』ファンの皆様、申し訳ありません)。この時の「セコンド」はもちろん、神原。神原の「立て!立つんだ!正春!」を読みたい。もう想像しただけでも泣ける。凛(ダークヴァージョン)との決戦に備え、「明日のためにその一」を稽古して欲しい。苦手の「相撲技戦」でも勝てるように「えぐり込むように、打つべし!打つべし!」を稽古してくれ正春!主巫女は呉葉。凛の巫女隊にはエリも参加(巫女対も闇に吞まれている)。エリの正春への思いも描いてほしい。正春は、負けるかもしれません。でも、正春は決戦が終わった後に冠を呉葉に渡すでしょう。

正春「呉葉…。呉葉はいるか?」。呉葉「ここよ、ここにはいるわ。正春くん」。正春「こつを、こいつをよ、もらってくれ。あんたにもらって欲しいんだ」。呉葉「…」。神原「おしかったな正春。しかし、よくやったぞ。わしはもう何もいうことはない。本当によ、やった。正春…。正春…」。正春「燃えたよ。燃えつきた。真っ白にな」。





 もう、このシーンで正春が失禁しても誰も笑わないでしょう?

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