何で死にたい、死ねって言葉が苦手なのか考えてみた。

どうも、ちかうです。

なんだかどろっどろのがたまったので、吐き出そうかなと思いました。
ツイッターですと、ちょっとどこまでになるか分からなかったので。

あたしはまぁ、ツイッター見てる方は分かると思いますがちょい(それなり?)に病みで闇です。病みが原因で闇が積み重なって、お薬は常用しないと生活危ういですし、気分は判断難しいですけど、まぁ、普通とは言えないかな。
電車の中で発作が起きれば作業先は遅刻、支援がなきゃ作業がまともにできない……。などなどとまぁ、めんどくさい状態。

そんなあたしが、聞かれることが多かったのが
死にたいって思ったことないの?
ってこと。

あたしは残念?ながらほとんどなくって、自傷行為(精神的にはしまくりましたけど)一回だけ。
未遂は……一回だけやって病院に放り込まれたくらい。
その時も本気で死にたいなーってっていうより、楽になりたいなーって感じでしたし。

それに、あたしは死にたい、死ねって言葉に対して過敏に反応しちゃいます。
それってあたしにとって死って身近だし、ちっちゃい時からずっと意識がある事だったからかなって。

あたしはちっちゃい時に、川崎病って病気になりました。
最初にかかった病院では別の診断をされて、症状悪化。
次に行ったところでは原因不明で、熱はひどかったのでともかく解熱剤を大量にいれるしかなかったけど、改善できなかった。
で、お手上げになって特例で都内の病院まで運んでもらった結果、診断が出て治療してもらって今生きてる。

あんまり記憶はないんですけど、その時からあたしは
たくさんの人が、あたしを生かしてくれた。その人たちのためにも、頑張らなきゃ!
っていうのと同時に
なんか、生かされちゃった。
って感覚になりました。

後遺症の事は子供だったから詳しいのはわかんなかったけど、明日死ぬかもなーなんて毎日過ごしてました。
だから、毎日楽しくない。
今日精いっぱい恥じなく生きられた? 明日死んでも後悔ない? みんながお葬式きてくれるようないい子として過ごせた?
何でまだ生きてるの?やる事が残ってるってこと?それってなに?
大体、こんな事考えてました。

あたしだって死にたくない。
怖いもん。だけど、死ぬときがもし砂時計の砂が落ち切るみたいに決まってるならそれに従うしかない。
きっとこの世に生まれた理由とか役割を果たせば、もういいよーってさくっと終わるかもしれない。
なら、近い内に来るその時を待てばいいやって。

あと死にたいって選ばなかったのは、色々考えすぎなあたしの性格。
しちゃったら、色々面倒かなって。
片付けるのも嫌だろうし、見つけた人だって大変。
警察さんにも迷惑かけるし、周りにも取り調べとかなるかもしれない。
そう思ったら、死ねなかった。
まぁ、他にもあたしなんかに目をかけてくれてお世話になった先生が相次いでとかもありましたけど。

だから、死ねとか死にたいって周囲が漏らしたり吐き出す言葉はあたしにとって重すぎる。
死ねってことは、まだ役割をもはしていないかもしれない人に対して、役割なんてもういいからってその人の砂時計を壊す事。
死にたいっていうのは、自分からその砂時計を割っちゃうこと。
そう思っちゃうから、なんでどうして?憎いとか苦しいとか気持ちはあるんだろうけど、何で言っちゃうの?本当に死んじゃったら耐えられる?
もちろん、冗談の流れやフィクションでなら流せるけど、さらっと本音っぽく言われたり感情がこもってるともうダメ。
一日中とか、しばらく落ち込んだり、あたし自身は生きてていいのか?みたいに向けられたみたいになって、発作が起きちゃったりします。

だけど、あたしだってもう生きていたくないって思ったことはあった。
高校時代は乖離が本格的に始まって、もうボロボロ。
大学入ったら入ったで、成績足らないのに指定校入学だった事の後ろめたさと、1年のスタート合宿で躓いて基本学校では卒業までうまく行かなかった。
院に進学したら、急に本が読めなくなって論文がかけない。
何とかは入れた就職先では、特性を話して考慮してほしいことを伝えても無視されてるみたいな感じ。

でも、その時思ってたのは、死にたいじゃなくて消えたい。
この世界に存在していたことをなかったことにしたい
ってこと。

自殺っていうのは、ある意味強すぎるくらいのメッセージかなって思ってる。
周囲に対して、ほら、もう何をやっても戻ってこないよ? こんなことをするまでになってたんだよ。でも、もう遅いよ?
ってメッセージを一瞬でもこれでもか!って強く刻みこむことが出来る。
そう思ってたから、あたしはできなかった。
そんなのを周囲に背負わせるなんて、できなかった。

だから、願ったのは消えたい。
最初からあたしなんて存在しなかったことにすれば、あたしもみんなも幸せ。
でも、出来るはずなんてないのも分かってた。
失踪したとこで、記憶や公的記録から消えるのは難しいから。

今は色々あって消えないで存在してても、まぁ、いっかな?まだ、役目あるかもだし。って思ってる。
でも、あたしは運が良かっただけ。
院の時指導していた子に、病院行くことを本気で勧められたこと。
そこで、今のカウンセラーさんに出会えたこと。
今年偶然にコーチングの存在を知って、受けよっかな?って思ったこと。

まぁ、この二つの、死にかかわる言葉とは適切な距離はとりたい。今のあたしじゃ死にたい、死ねを言った人のエネルギーや思いを受け止められないから。

だけど、あたしが今まで経験したことは消えないし、もしかして距離をとれたら生かせる方法が何かあるかもしれないし。

いつかは分からないけど、その内に。

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