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個展「眺めと見分け」に寄せて

「紅葉を楽しむ」ときにはなにを楽しんでいるのだろう。
こんな話題を多数派色覚者と「色弱者」の両方に出してみて話を聞いた結果、多数派色覚者は主に鮮やかに色づいた葉の「普段との違い」を楽しんでいるようだ。
つまりこれは「見分け」の楽しみといえるだろう。
対照的に私を含めた「色弱」はそもそも紅葉などなにもおもしろくないという意見や、紅葉を「普段との違い」で楽しむのではなく、普段と変わらず「緑を見て癒される」ような楽しみ方をするのだ。
こちらは「眺め」の楽しみとしたい。

紅葉を例に挙げたが、その他の「見る」こと全般も「眺め」と「見分け」に大別することができる。
もちろんこのふたつは完璧に分かれている訳ではなく、無限のグラデーションの中でゆるやかに繋がっている。
しかしあえて「眺め」と「見分け」に分けてみることで「色弱の絵画」とはどういうものかというテーマにアプローチしたいと考えている。
まずは「見分け」の問題点について挙げてみたい。

私が日常において「色弱」を意識して嫌になるときは常に「見分け」るときだ。
例えば駐車場の「空き」を示すランプが緑、「満車」を示すランプが赤と色分けされているのを私はほぼ「見分け」られない。
色による「見分け」は社会(「色弱」を除いた)に深く入り込み、もはや取り除くことが不可能なところまできている。
それはいわば「見分け」に依存した状態だともいえる。
危険な場面においても「見分け」は非常に有用だが、それ故に「見分け」に依存することを問題視するべきだろう。

「眺め」というのはどういう状態かというと、見ることに意味や目的を求めないものの見方だ。
空を眺める、山を眺める、海を眺める...これらは対象を見たいから見ているというよりはただなんとなく見てしまっているといったほうがいいだろう。
目を開けているときはなにかを見なければいけない。
その目の置きどころを求めるように、ものを「眺め」る。
あそこの色が赤で、あそこが緑で...なんてことは考えず、ただ全体/細部を見つめている。
この状態をなにも意味がないと捉えることもできるが、「色弱」の私にとってはなににも代え難い価値を持つ。
「眺め」ているときは「見分け」が行われない故に他人と比較されることがなく、自分が「色弱」でもなんでもないただひとりの人間でいられる。
現代では得がたくなってしまった孤独、絶対的な自分でいられる時間を与えてくれるのが「眺め」なのだ。

今回展示する作品は生活する中での観察や制作の中で培ってきた「眺め」の条件を絵画として表現したものだ。
この条件はあえて言葉にしないので、実際に体感してもらいたい。
「色弱の絵画」は「見分け」に依存した状態から解放し、「眺め」という孤独で幸福な時間をつくりだすのだ。


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