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私の幸せの話

GWが今日から始まり、近所の妻の実家に妻子が泊りに行き、いつも賑やかな家ががらんとして、一人家にいる私。
こうして一人になることってほとんどないわけで、一人になってみるといつも気付くのが私は幸せだということ。

無くして気付くことって色々あると思うのですが、こうして一時的にでも家に1人きりになると、私が日々享受している幸せを感じずにはいられません…

幸せの話って、誰かと比べてしまうと全く別の話になってしまうので、自分がどう感じているかという点が非常に大切だと思っています。

「どう感じるか」というのは、結局何らかの事象にたいして「どう解釈するのか」と同義だと私は考えています。そして、この事象に対する解釈が厄介なのは、自分の今の状況であったり、これまでの経験だったりに左右されることにあり、他の誰かと理解し合えないことはよくあります。

例えば、誰かにるとお食事のお誘いという事象に対して、私は幸せも不幸せも両極端に感じることができます。憧れていてお話を聞きたいと思う方からのお誘いであれば、手放しに幸せです。一方で、会いたくもない人に誘われたら幸せは感じられません。

この幸せと不幸せの両方を分ける基準は、私だけのもので、他人には理解しがたい場合もあります。もちろん、それ分かるわ~って言って貰えるときもありますが。

この自分の幸せの基準について、いくら自覚的だとしても、状況に影響を受けるのを避けられない私は、定期的に不幸せを感じるサイクルにどうしても巻き込まれてしまいます。のほほんと生きていたいけれど、このサイクルにはいつも翻弄されます。

数か月前に、不幸を感じるサイクルに入ったときは、やはり人生が闇のように感じましたし、”諸々辛いなマジに”とどんよりしていましたが、今は良い感じになれています。

私にはこれまでそうした時には誰かが話を聞いてくれて、言葉を掛けてくれています。今回もそうですし、前回もそうですし、前々回もそうでした。

私にとっての人生の危機的な状況には必ずそうでした。
妻や両親、友人・知人、同僚そして子供も。
全ての方のありがたいお顔がすぐに浮かびます。

私が幸せなのは、そうした自分以外の人が私の言葉を聞いてくれて、私に言葉を掛けてくれるからだと思っています。

それを幸せだと感じられることに本当に幸せを感じます。

でも、この先孤独になることがあるかもしれない。
それは本当に怖いことです。

だけど、それは未だ来ていない世界。

今は今の幸せをしっかりと感じていたいと思っています。

ちなみに先ほどまでハイボールを飲みながら一人焼肉を家でやっていたので、ちょっとほろ酔いでこのnoteを書いています。

酔って書くのって初めてかも。


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