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わたしの中で生きている。

先日、こんな↓エッセイを書いた。

愛するもの(人でも動物でも)が、亡くなると、その命日を偲ぶ習慣があるけど、なんでだろう?本当は、亡くなった事より、生まれてくれた事の方が重要なんじゃない?死んだ日より、誕生日の方が大切な日なんじゃない?

という内容だ。

そういえば、母の誕生日は来月だったな。

エッセイを書き終えて、ほっとひと息ついた後、思い出した。

年末から何度も読み返している”鬼滅の刄”。裏の主役とも言える・”鬼舞辻無残”は、鬼の祖先。無残から血を貰った人間が鬼になり、鬼は増える。だが、祖先の無残が死ぬと、全部の鬼も死ぬ。

人間も形が違えど、同じだなと思う。鬼の様に、何百年前の祖先と今日誕生した鬼が同時に生きているなんて事はないけど、祖先があって、子孫がいるのは不変の順番。私が今、ここに存在しているのは、親があっての事。そして、その親がその親から生まれてきたから、私がいる。私の中には、母と父と半分づつのDNAが存在する。私のこの細胞には、父がいて、母がいる。

なーんだ、生まれた時からずっと一緒に生きているんじゃない。

2011年4月、父は東北大震災のひと月後に他界した。もっともっと、たくさん、話がしたかったな、など思うこともあるけど、でも、こんな風に思うのも悪くない。一緒に生きているんだから、いつでも対話できる、と。

こんな時、お父さんならどう解釈するだろう?

いつも面白い発想で、私の目を開かせてくれた父。その父は、私の中にもちゃんといるんだから、私が自分に話しかければいい。自分との対話が、父との対話でもあるのだ。

”鬼滅の刄”の主役の炭治郎も父や祖先の記憶からヒントを得て、助けられている。細胞の記憶って面白いなぁ。そして、脈々と受け継がれる生命の流れも。

さて、来月の母の誕生日は、何をしよう。いつもより長くビデオ通話をしようか。その時は、いつもみたいにイライラせず、優しくできるといいけれど。

そして、心から伝えるのだ。

お誕生日、おめでとう、と。

加えて、心の中で呟こう。

生まれてきてくれてありがとう。そして、産んでくれてありがとう。と。




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