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ところで私、もう、歳ですか?

子供の頃から不思議に感じていたことがある。

年齢の感覚である。

私には2歳上の兄がいて、幼児の頃、それはそれは頼りになると思っており、いつも後ろをついて歩いていた。

母親なんて、神様ぐらい完璧だとすら思っていたと思う。

恐ろしい勘違いである。

その頃、兄は小学生で、母は20代〜30代前半。頼りになるわけないし、完璧であるわけない。なのに、幼児・子供の私は疑うことなく、そう信じていた。

小学校に入学した時、小学6先生がすごいおにいさん・おねえさんに見え、中学生になったら、小6なんて当たり前にガキにしか思えなかった。

自分の中に自然に沸き起こるこの判断力・認識がずっと不思議に感じていた。

20代前半だったと思う。母と渋谷の駅前で、先導して歩いていた私に、ティッシュ配りのおにいさんがサッとティッシュを渡し、その後ろにいた母をスルーしたことがあった。ささっと母が私に追いつき、

「なんで私にはくれないのかしら?」と、変な笑い顔で言うので、なんだかイラっとした。

「そんなの当たり前じゃん。若い子目当ての広告が入っているティッシュだからだよ。」

お母さんが私と同じ若い部類に入っているとでも思っているのか?それとも、この”当たり前”のことが理解出来ないのか?

どちらにしても、”ばっかじゃない?!”と思っていたことは確かだ。

母の、「あら、ひどいわねぇ。」と言うトボけた反応に、更にイラっとした残酷な若い私を良く覚えている。

だが、今の私はあの頃の母の気持ちが良く理解できる。

あの頃の母は50歳前後。自分ではそんなティッシュ配りにスルーされる程、おばさん・おばあさんでもないと信じてたのかもしれないし、そもそも年齢で、区別されることに納得がいかなかったのかもしれない。

日本の年齢による区別だと思い込んでいる差別って根深い。アメリカでもないことはないけど、でも、年齢を明かすことから始まる文化ではないから、日本程のあからさまさはない。本人が魅力的であれば、それでまかり通るみたいなところがある。

だが、それは他者が自分を判断する話であり、自分の中の自覚ってものとはまた別であろう。話を戻そう。

果たして、今の私は若いのか、若くないのか?

小・中学生の自分からみたら、「え、まだ生きていたの?」って感じ。だって、20歳までに死なないと、なーんて思っていた多感な少女だったから。

30歳になった時、「ああ、もうすっかりおばさんだ。」と思ったけど、40歳になって、”なんであの頃(30代)、そんな風に思ったんだろう?あんなに若かったのに。”とちょっぴり後悔した。そして、そのあたりから、”ああ、人間って、きっと幾つになっても、こんな風に思い続けるものなのかも。”と理解した。

80歳になっても、70代は若かったのに、と思うものなんだろう。だから、80代の元会社同僚のWuさんは、私に会うたびに言うのだろう。

「黒リスさんは、まだまだ若いよー。まだまだ何だって出来るわよ。」と。

そして、そのセリフを言われる度に、”いやいや、現実、もう若くないですよ。あなたから見たらでしかないですよ。”と内心ツッコミを入れてしまう捻くれ者の私。そんな関係がなんと20年続いている。

20年と言えば、赤ちゃんが成人する年月である。

そう思うと、やはり、Wuさんの言っていたことは正しかったのだ。

あの頃の私は間違いなく若かった。

30代半ばであろうと、40代であろうと、はたまた50代であろうと、これからの自分に比べたら、間違いなく、今日が一番若いのだ。

そしてまた、自分の一生という時間の中では、ちゃんと歳を取れている。

沢山の過去という時間から学びを得て、これからの未来の時間をどう過ごすか。

まずは今日という日から始めよう。







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