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「小説」セントラルパークランナーズ(36歳・男性)

今日の俺はイケる。気温もマラソンには丁度良い少し寒いぐらいの7度。ペースは予定のマイル8分(キロ5分)より15秒程速いが、今日の俺ならこのペースでイケる。いや、いけなくても、どうせ後半、落ちるんだから、調子の良いうちに貯金を出来るだけ貯めておくのも戦略だ。

長いはずのベラザノブリッジも、あっという間に感じた。号砲と共にフランクシナトラの”ニューヨーク・ニューヨーク”が流れる中、俺の初マラソン・NYCマラソンがスタートした。スタートゲートを越えたと同時に、ガーミンウォッチのボタンを押した。その瞬間のドクンという胸の鼓動。今まで経験したことのない興奮。周りのランナー達は、両手を高々と上げて走ったり、橋の上で写真を撮ったり、はたまた、まるで記念にと言った様に、橋の上から立ちションする輩までいる。右手には、マンハッタンの摩天楼がくっきりと見える。天気も上々、俺の気分も上々。サイコーだぜっ!

そんな最高なスタートを切り、3マイル目。初マラソンで、3時間半切りを狙う俺はメチャメチャ調子が良かった。沿道からは途切れることのない歓声が聞こえる。ああ、これが九条先輩が言っていたNYCマラソンか。想像以上だぜ。ひゃー、気持ち良い。先輩に感謝だね。先輩も今頃、サブフォー目指して走っているだろうな。それにしても、先輩、3年も走っていて、まだ4時間切れてないんだもんな。才能ないんだろうな。それに比べ、俺は元々身体能力高いし、努力もするタイプ。地頭が良いところに勉強もするから良い大学に行けるし、良い会社にも入れるのと一緒。その上、コミュニケーション能力も高い。お陰で、上司の受けも良いから、うまく引き上げて、ニューヨーク駐在さ。この調子で、俺の人生、ずっと右肩上がりでいくぜっ。おっと、今は、兎に角、マラソンに集中だ。よし、4マイル目通過。え、マイル7分40秒?ちょっと速すぎかな、いや、NYCマラソンのコースは前半、下り基調だし、こんなもんかもな。

あ、あれは。

前方に小柄な黒髪ポニーテールの女性ランナーが目に止まる。ナナさんだ。ブレの少ない綺麗なフォーム。NY日本人ランナーコミュニティでは知らない人はいない”元”サブスリー女子ランナー。年齢は確か俺より10個ぐらい上のはず。つまり、今はちょっと速いおばちゃんランナー。NYRR(ニューヨークロードランナー)主催のレースで良く見かけるので、いつしか会話をするの様になった一人。

「お互い、頑張りましょっ!」

無言で抜くのもなんだな、と思い、軽く声を掛けると、左手をサッと上げて、チラッと俺を見て、少し驚きの表情を見せた。走り始めて1年足らずの若造にまさか抜かれると思っていなかったのかな。まぁ、いいや、時代は常に動いてるってことさ。もうあなた方の時代は終わったということで。

そう、俺は快調だった。ハーフも予定より4分以上早く通過。この調子でいけば、初マラソンで3時間25分、いや、最後、死ぬ気で飛ばせば、3時間20分切り出来ちゃうんじゃないってぐらい勢いに乗っていた。

クイーンズボローブリッジまでは。

クイーンズボローブリッジ手前で、なんかちょっと脚が重たくなってきたとは感じた。だが、まさかのクイーンズボローブリッジでブレーキ。登り始めて急に身体が重たくなり、脚も全く上がらなくなってきた。嘘だろ、なんだよこれ。異常に汗が出て、目に染みてシバシバするし、頭までクラクラしてくる。永遠に続く地獄の様な登り坂に感じた。ほぼ歩くスピードでなんとか上りきり、さぁ、下りで挽回するぞ、と意気込んだが、その瞬間、膝が抜ける様な感覚に襲われ、よろめいた。太腿で支えきれず、転びそうになる。仕方なく、泣きそうな気分で、ヨチヨチ歩きで橋を渡った。

本当の地獄はそこからだった。

マンハッタン一番街は、NYCマラソンの大歓声スポットの一つ。両道路脇は人々が折り重なる様にいて、大声でランナーに声援を送っている。この声援の中を颯爽と走り抜けるはずだった俺。だけど、現実は、ヨタヨタと何とか前に進んでいる。カッコ悪すぎて、両手で耳を塞ぎたくなった。

そんな俺の横をそよ風の様な軽さでナナさんが通り過ぎる。無言で、グーを見せてきた。”頑張れ”という意味だと理解した。どんどん小さくなるナナさんの後ろ姿から、自分との実力の違いをまざまざと見せつけられた。

ブロンクスに続く橋で、もうベタ歩きになった。身体中が痛いわ、脹脛が何度も攣るわで、正直、投げ出したい気分だった。そんな時、後ろから、ポンと肩を叩かれ、怒鳴る様な声で、「八代、最後まで諦めるな。頑張れっ。」と言われた。九条先輩だった。

九条先輩も相当へたばっているのが分かった。ほぼ歩いているのと変わらないのに、でも、走り続けていた。その一歩一歩が、気づくと、俺との距離の差になって、最後は姿が見えなくなってしまった。

結果、九条先輩は3時間58分34秒でゴールした。念願のサブフォー達成だ。ナナさんは、3時間24分55秒。最後の5キロは7分台前半まで上げてのネガティブスプリットでゴール。バケモノだ。

そして、俺。4時間28分20秒。目標タイムどころか、サブフォーにすら、かすってもいない。完敗だ。

ん、完敗?

完敗って、俺は誰に完敗したんだ?誰と競っていたんだ?

嗚呼、と気づいた。俺は俺に負けたんだ。俺は、最初から俺に負けていたんだ。俺の傲慢さ、勘違い度の酷さがレース結果だ。

マラソンって恐ろしいスポーツだな。性根が炙り出されるみたいだ。

だけど、”今度こそは”と思ってしまう。

俺は、九条先輩と同じ沼に嵌まり込んだと自覚した。











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