朝のコピー短歌(2019.11.23)句読点


句読点 キャッチコピーにつけますか 
打つか打たぬはコピーが決める


広告コピーでも、パンフレットなどの見出しやタイトル前のショルダーでも、
句点「。」がついているものと、ついていないものがある。

体言止めのものにはついていないことが多く、
「ですます」で終わっているものにはついていることが多い。
体言止めのものでも、その前に読点「、」がついているものは
句点「。」が対になってついているものがあったりもする。

最後はコピーライターさんの好みで決まるところもあるのだけれど、
伝えようとしている言葉のトーン、そして紙面のなかでも
その言葉の役割から、おのずと句読点があったほうがいいか、
ないほうがいいか、頭で考えなくてもわかったりする。

句読点はいつから使われている?

句読点は本来、日本語を読みやすくするために、
明治30年代、40年代からつけられるようになったと言われている。
まだ、歴史にすると120年足らず。

じゃあ、それまでどうしていたの?と気になって調べてみると、
中世以前は、正式な文書は漢文で書かれていたので、中国と同じように句読点のようなものがあったそうだけれど、草書体から発展した平仮名での筆記になると、
文章の区切りごとにつながって書かれることが多かったため、句読点がなくてもよくなったらしい。
また語頭とそれ以外で仮名を使い分けたり、漢字と仮名をまぜて書いたりすることで、句読点をつけなくても言葉の句切りがわかったのだとか。

句読点をつけないものがある!

いまでも句読点をつけないものとして、毛筆で書かれた賞状や感謝状などがある。年賀状や喪中ハガキも、縦書きの場合、句読点をつけないことも多い。また詩や短歌、俳句なども、例外をのぞいてほとんど句読点はないかな。

句読点を使わない場合に使われるのが、空白(スペース)によって語を区切る「分かち書き」。詩ではよく見られる。俳句や短歌では、朗読の休止や、意味や意図をわかりやすくするために使うことがある。

蛇足だけれど、語句の区切りを間違って読むことを「ぎなた読み」または「弁慶読み」とも。「弁慶が、なぎなたを持って」と読むところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と誤読したことからそう呼ばれるようになったとか。

最後にわたしのすきな、まど・みちおさんの詩を
「分かち書き」の例として、本棚の書籍から引用して紹介させていただきます。
よろしければ、ご一読ください。

ぼくが ここに

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない
 
もしも ゾウが ここに いるならば 
そのゾウだけ 
マメが いるならば 
その一つぶの マメだけ 
しか ここに いることは できない
 
ああ このちきゅうの うえでは 
こんなに だいじに 
まもられているのだ 
どんなものが どんなところに 
いるときにも
 
その「いること」こそが 
なににも まして 
すばらしいこと として

 (まど・みちお詩集『ぼくが ここに』(童話屋)より抜粋)

この詩集に収録されている「たまいれ」もすごくいいですよ。

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