2024年6月

バッタリ会う帰り道


格好良いミニクーパーで帰宅する同僚を見つけた。「俺も途中まで乗せて!」と吉祥寺まで乗せていただく。たった10分のドライブだが、社内であまり接点のなかった同僚と話すのは楽しかった。

先日は仕事終わりに古美術のドラマーとバッタリ会う。こういう予想してない出会いに驚く。今日あった出来事を聞いたり、突然の会話を楽しんだ。私の降りる最寄り駅まで短い時間だったが楽しかった。

吉祥寺で喫煙所に入ると、死んだはずのおじさんを発見、タバコを吸っていた。「あっ、、」と声が出た。去年死んだはずじゃ、、。よく見たら別人だった。そりゃ当たり前なんだけど「久々に会ったら話したい人が何人かいるなぁ」と思った。別に特段伝えたいことがあるわけではないけど、話したい。

「元気すか?」
「元気だよ。そっちは?」
「変わらないすね」
「だね、お互いに年をとったね」
「そうすか?」

こんなものかもしれない。「じゃ、元気で!」で終わるだろう。些細な会話の中に会ってなかった間のドラマを報告しあうだろう。私は生きてる人の感じてることを聞きたい。この先どれくらいの人と会えるだろう。

歌に乗せて何かを結晶化できたら喜ばしい。
自分がこの先、出会うものはどれくらいあるだろう。
そしてそこから感じたものをどれくらい形に出来るだろう。
少しセンチな気持ちになりながら、帰る道。

バスから降りたら沢山の人、雨の帰り道に紛れて3メートル先のオッサンが「ぶっ」と屁をこいた。隣を歩いている人は聞こえたただろうに。聞こえないフリをして歩いていた。突っ込む時間でもない。

ビックリさせる人生

LINEのスタンプが昔から気軽に使えない。
誰かから送られてくるくらい自由にスタンプを送りたい。しかしファニーなイラストで、スポッ!というのができない。
軽い気持ちでスポッと送れば良いのだが「これは自分の今の気持ちと乖離しているのでは」「このスタンプは失礼なんじゃないか?」という謎のハードルが自分の中にある。変な自意識かもしれない。結局、送るのを躊躇い「お疲れさまでした」と文字で送信する。

以前ライブ中のMCでも「LINEのスタンプが自分の気持ちと合致しているのかどうか不安で送れない」したことがある。ライブを見てくれた方が後々ブログに「黒岡さんはとても生きにくそうだ」と書いてあった。他の人からすると、すごく面倒くさいことにこだわっているオジサンに見えたことだろう。本当にこの気持ちは何なんだろうか。

と言いつつスタンプに憧れ、購入したことがある。購入はしてるものの一向に送れない。誰かから送られてきた時は「かわいいね」と思うのに、自分で送るときは、、ううう、、と躊躇ってしまう。誰もそんなこと意識してはいないのに、自意識過剰が過ぎるのかもしれない。

先日、会社の後輩とLINEのやりとりをしていた時のことだ。穏やかな後輩のLINEスタンプで「お疲れさまです」と送られてきて、優しい気持ちになった。
人を優しい気持ちにさせるのはいいなぁ。私もそうなりたいと思って、購入しようとしたが、何故か買えなかった。何なんだ。

思い返せば自分は人をビックリさせることに全力を傾けてきた人生だった。なんだかわからないけど、誰かを、自分をビックリさせたいというエゴの塊のような生き方をしてきた。漫才でも音楽でも裏切られた方が清々しい。刺激の強い映画や美術や音楽に傾倒し憧れていた。そんな時代が長すぎた。それ故か、メジャーなものや受け入れやすいものを何故か毛嫌いする癖があり、距離をとって生きてきた。

しかし最近の私は少し傾向が違う。ビックリさせても、それ程効果がない。という結論に至ったのだ。年か。
というか中身があれば、ビックリしようがジワジワ感動しようがいい。という判断だ。ただただビックリさせるだけだと、みていて辛くなってきた。それはただの脅しでしかないのではないかと、、思うようになった。血と肉と骨で向かっていかないといけない。皮膚ではない。そんなことを考えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?