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千葉正也ワールド

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これだ!一枚のポスター。これは行かないといけないやつだね。私の勘は当たる。待て待て。私の勘にそんな精度もない。えい。ままよ。どちらにせよ行って確認してみるしかない。良ければひたればよいしピンと来なければ帰ればいい。

初台駅。オペラシティー。会場にイン。大きな部屋を横切るように何かの通り道?むむ?しょっぱなキャンバスは裏側になっていて反対側に回らないと絵が見えない。しゃあない。キャンバスの後ろを通って歩いていく。さて、はて。はてだ。はてのはてだ。何だろう。あ。亀がいた。このコースは亀が歩く道ですか。なあんだ。ってなあんだじゃねえ。亀?!「千葉正也」展。ポスターのイメージはほんのある一部しか切り取ってなかったのだとわかる。こりゃ。一筋縄ではいかんぞ。深いぞ。広いぞ(会場はそんな広くない、世界観が)。ポスターのイメージから想像できない絵が沢山並べられていることに、この作家を好きになった。

絵を見ているうちに、ズブズブと千葉正也ワールドに入っていく。大きな油絵の前で立ち止まる。現実に存在するモノと想像上のモノが一緒に描かれている。絵の中でごちゃ混ぜに静物画のように置かれている。その置かれた物体ひとつひとつに意味があるのか。メッセージはあるのか?となると一緒に置かれているものの関係性は?意味があるとしたら何なんだろう?いや、待てよ。意味?意味ってなんだよ。たまに文字が書いてある紙の絵。写真。ポラロイド。一枚一枚。ページをめくっていくように鑑賞。舐めていくアイスみたいに作家の声らしきものを想像する。

「私の感じたモノ、そこに意味があるので解き明かしてみてください」また別のところから作家の声「何かを運ぶ時、意味とかが邪魔してしまうよね。だから意味って扱いにくいものになるよね」二つの声。それは作家の声なんかじゃない。俺の声や。その二つの問いの間を行ったり来たり。

池の真ん中にポッカリと浮かんだAとBという島。そうだよ。Aだよ。いやBだ。そのどちらにもに立ってみる。AとB。行き来するうちに、Cもあるんじゃねぇ?一体何をやってるんだか。自分の中で質問を出したり引っ込めたりする。わたしが見てる時の堂々巡りとは比べ物にならないほど作家は年月をかけてこれを作ったんだろうなと勝手に作家の気持ちを想像したりする。「グレートジャーニィだなぁ」と見続ける。キャプションがないのがいい。作家から感じたのは「そこでステイしたまま考え続ける根気強さ」。作家は逃げずにずっとここで戦ってたんやな、そう思うとその粘り強さと工夫されたアプローチび驚いて「はっ」となった。

人はついつい理解したいからか、ある程度のところで勝手な結論を出して落ち着こうとする。何故か?っていうと多分簡単だからだ。意味不明な状態のままずっと考え続けたり堪えるのは厳しい。不安定な場所で立ち続けるのは病名がわからないようなものだ。何かしらの理由をつけてでも納得したい。ついつい何でもいいから何か自分のしっくりくる「理由」を手に入れたい。こじつけたい時もある。すっきりしたい。それで大多数のルールと照らし合わしたい。

よくわからない時の人間は弱っちい。どうにかこうにかして自分の今いる場所と同様の意見を探す。本を読みあさったり、インターネットの海に入る。今なら漏れなく検索ワードをかければ同じような人に出会える確率は高い。自分は何かと、自分の考えは何かとすっきりしたい気持ちで探す。よくわからないままだと、誰か好きな人の思考に寄り添っているだけかもしれない。そんなことをついつい考えてしまう。

どこにも自分が持ってる感覚と似たようなものがなければ、なかなか心もとないものとなる。「心もとないところで立ってられますか?」ってことを考える。認められれば自信もつくけど。

ある日後輩と飲んでいた時のことだ。「自分を正当化し続けると、自分ばっかりでっかくなって、険かもしれないね。時に他のものを攻撃してしまう。もちろん他からの攻撃に備えるために自分を守ろうとするのはわかる。だけど自分のことを信用し過ぎたり検証せずに認めたりすると、たまに大きなしっぺ返しを食らう。こりゃ危険なことなんだよね(俺は何度も食らってる)」と話をすると「自己肯定感を持てない奴はダメだよ」とあっさりとイナされた。うまいこと伝わっていないなと思っていたが飲みの席だったこともありこれ以上説明するのが面倒となった。

微妙なところに立っていると不安となり自分のことも肯定しにくくなる。暴風雨の中慰めてくれる人はいない。ましてや認めてくれる人は少ない。突っ走っていたら誰からも見放される。そんな中でどうやって立ち振る舞う?じっと冬眠するか。まわりの意見に耳を貸すのか?どっちにあわせていくか?うまいことやっていくか?守りたいから自分を正当化するための言説を集めるか?似たような人を見つけたら結託して「そうだ!そうだ!」とするか?集まって「俺たちは正しいよな!」モーニンググローリーよろしく大合唱をするか?いや。自分と他人の話じゃない。自分の論説を守れるか?いや、待てよ。そんな論説なんて本当にあるのか?妙なところを行ったり来たりしていた。

もう一度、作家の作品の前に座る。よくここで粘り強く座っていたなと思う。志の鋭い棒みたいな太さに驚愕する。「お前何言ってんの?」ってところに立ち続けるのはなかなか難しい。賛同者を得ることは必要だ。ここまでこの道をストレートに曲がらず来たんだと思うと本当に凄いなと感じた。勝手にストレートに来たと思っているがそんな簡単なものじゃなかったかは知らない。もしくは想像するよりももっと簡単だったかもしれない。性格の問題もある。

そこに立ち続けていた作家に声をかけたようなつもりになった。「ここは本当に丁寧に描いてますね」「ここは大胆にカブいてますね」粘り強くやらなければならない道は遠く彼方まで続いている。この道はいつからでも始められる。ただし特急券はない。地道に自分と向き合って鈍行列車で行かなきゃいけない旅みたいなもんだ。そのジワジワ淡々が必要でようやく羽化するんだ。羽化、、羽化しないかもしれない。その人生が正しかったとか間違っていたとかそんなもんじゃない。自分との正直さのレースにどこまで向き合えるかだ。いやはや、そいつはハードだぜ。そんな風に思えた。作家の根気強い作業に敬礼した。

コンコンと自分の穴を掘り続けている人や信じてやり続けている人。それは興味だ。幾度となる同じ道の繰り返しかもしれない。そいつは簡単な答えじゃなさそうだ。しかし年齢や経験とともに答えを出すときもあるかもしれない。粘り強く、粘り強く、、誰も立ったことのない未知のオリジナルの場所で「ここに場所があります」と言い続けている人、提案している人は、本当に興味深い人でヒーローだ。人間の強さをみた時に世界の美しさを知る。それでなお、疑い続けてるっていくことに驚愕する。「安住の地なんてないな」っていう顔して日々がやってくるように。

オペラシティから出た。一つ、自分の勘が当たったような気になって誇らしくなった。千葉正也ワールド。最初は一枚のポスターからだった。

今回のテーマは「ほかほか」でした。「ほかほか」すっかり春らしい陽気になりました。2月分の締め切りを10日はみ出ました。ゴメンなさい!また来月ってか今月書きます!展覧会レポートでした。

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