モノと思い出

昨日「フォロウィング」と言う映画を見た。
モノクロ映画の効果か張り詰めサスペンス。
節々でシンプルで余計なことが排除されてた。必要なだけのセリフが散りばめられていた。

映画中に泥棒が言う。鍵を開けて侵入した部屋、戸棚の引き出しを開け、思い出の箱を開け、他人の集めたモノに対して。

「人は好きなモノを集める。そして集めたモノに価値があると思う。しかし一旦所有してしまうと、どんな価値なのかだんだんと分からなくなっていくものだよ。人は、思い出やら、集めた紙屑に価値があると思っている。
しかしモノが盗まれたらどうだ?もう一度欲しいか?もう一度買いたいと思うか?盗まれてようやくそのモノが持っている価値に気づくのだよ。だから泥棒には意味があるんだ」

なんていうようなセリフがあった。うろ覚えで詳細は違っているかもしれない。勝手に足されているかもしれない。

わたしも例に漏れずモノを集める癖がある。特に本や音源(CD、レコード)の類は「エイッ」と買ってしまう。モノの中にも、日々使う、滅多に使わない、二度と使わないいろんなモノがある。
部屋には本やらレコードが置かれたままの状態で徐々に部屋はモノに侵食されている。忘れられて放置されているモノ。部屋が狭くなるのが嫌でこの前、大分シンプルにした。


先日、野外でミニライブをした後、ビールを飲んでフラフラしていると、おじさんに声をかけられた。「ライブ見たよ。ダンヒックスに似ているね」と言われた。風の音が強く、おじさんの声も遠く判別しにくい。ダンヒックスなのかランキックスなのかわからない。「誰ですか?」と聞くのも失礼な気がして、なんとなく「そうでしたか。ありがとうございます」と話を続けた。どうやら話の流れ上、Dan Hicks(ダン・ヒックス)がカントリーの人だということはわかった。

話は続く。おじさんは、The Band の来日コンサートに7回行った話をしてくれた。「Robbie Robertsonが亡くなられましたね」「去年でしたっけ、、」と個人的に知ってるThe Bandの話をした。The Bandもメンバーがちょこちょこ変わっているので、細かいところまで追えていない。というか後期は知らない。

まだまだ話をしてくれた。当時は日本にはお金があったので、吉田拓郎のバックでThe Bandが演奏する話があったらしい。眉唾物だ。「吉田拓郎のバックバンドにThe Bandっで本当ですか?」残念ながら(?)、同時期にBob DylanがThe Bandを召集し「偉大なる復活」コンサートを開催する運びとなり、拓郎バックバンドにThe Bandの話!は流れた。全て「マジすか!」と聞かせていただいた。それくらい日本にはお金があったんだな〜と思った。

そこからレコードの話になった。8000枚のレコードを所有しているとのこと。「すごい大量ですね」
部屋の8000枚のレコードのことを思った。8000枚というと、、どれくらいなんだろうか。「すごいですね。置けるスペースがあるんですね?」と聞くと「今はレンタル倉庫に預けてあるよ」と。レンタル倉庫に置かれたレコードを思った。売られるわけでもなく、ただ出番を待ってるのか、放置されているのか。レンタル倉庫分のコストがかかっているレコードたちのことを。

モノには、何かしらの思い出がつきまとう。その思い出が厄介だ。モノの価値とは別の価値がくっついてしまっている。ライブで買った音源も、旅をした時に東京駅の本屋で買った文庫本も。そのモノを手に取ると、曲を聞くと、内容じゃなくて個人的な自分の過去を思い出したりもする。モノには個人的な思い出が付きまとっている。


レコファンなどに行くと、昔夢中になっていたCDが300円くらいで叩き売られている。「や、、や、、安すぎる」と手に取る。所有しているのに手にとってしまう。昔の彼女にでも会う感じだ。「おい。おい。300円だぞ。誰も買わねえのか」つい買ってしまいそうになる。「待て!家に同じモノがある。本当に買う必要はない」やめる。


個人的な思い出と未来の市場の価格はイコールではない。当たり前ですね。

思い出の価値はそのまま残る、、、、う〜ん。残るかというと、もう価格で考えること自体がナンセンスのような気がしてきた。その思い出が良ければいいじゃん!になる。そして思い出というのは、別にモノがなくても残ったりする。


はて、思い出というのは、どれくらい所有できるんだろうか。思い出が入り込めるスペースはいくらでも詰め込めるんだろうか。記憶力なのだろうか。
カレーの中にあるスパイスの濃淡のように、直接感知できる思い出もあれば、うっすらぼんやりしている思い出もある。出たり入ったり急にくっきり見えたり人間の身体は脳は勝手にそれをやってくれている。忘れない思い出。何度も話す思い出。一ミリも覚えていない思い出。それは思い出なんだろうか。

一度見たのに、すっかり忘れてしまっている映画。最後の方でオチがわかっている自分に気づき、見たことを思い出す。結局、記憶は都合のいいように書き換えながら時間を過ごしているのだろうか。記憶している情景など、何がセンサーに引っ掛かるんだろうか。

どういう態度で見ているのかどうかによって覚えているかどうかが変わってきそうな気がする。

勝手に忘れ、勝手に取り出せる記憶。忘れてはいけないこと、忘れてもいいこと、詳細は覚えていないけど、何となくその感覚だけは覚えているもんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?