作家の魂が単純化されて届く 今井俊介
今井俊介
去年の5月にTwitterで知って気になってた今井俊介。全然知らない人。夏に実家(岡山)に帰るついでに行けたら行きて〜、、なんて思っていたけど叶わず。実家とか関係なく知らない作家を見に1人で丸亀に行くのも悪くないと思ったが、念願叶わず。(そうできたら面白かったでしょうよ)
結局行けずで嘆いている。「東京でやって欲しいな〜」と思ってたらオペラシティのチラシを見つけた!下↓
「うわ!これは!行くしかない。行くぞ!やっぱりオペラシティか!さすがだわ」となった。
恥ずかしながら一年前に「同じ歳だ!」ってビックリしてるのに、2023年も同じ歳であることにビックリしている。アホすぎる。しかしたまたまだけど最近同じ歳の人に出会うことが多い。同じ年に生まれたと思うと勝手に親近感を持ってしまう。最近は山崎ナオコーラさんが同じ歳で「うお〜」と思ったものだ。
同じ年だと、同世代っていう文字通り、同じ年で同じ世界を経験しているわけだから、、どこで社会に出たかとか、どこで悩んでいたとか、、年代を見ると「あ。俺もこんなところで悩んでいたな〜」とか自分を通して変換しやすい。私も(私の話で恐縮ですが)大学を出たての頃は「自分の表現」をやりたくてやりたくてもがいていた。(今でも?もがいている?)何にせよ、みんなその扉を叩くんだよな〜と思って勝手に自分と重ねて見てしまうのである。
さて、展覧会。6月になってすぐの雨の日に行った。「空いてるかな〜」と思いながら平日、、誰もが「出るの面倒くせ〜」と思うような雨の日。雨の日、嵐の日、台風の日、平日、皆の外に出る足が億劫になる日。不謹慎だけど、穴場の日みたいでありがたい。混んでいる中に行きたくないからだ。混んでると集中して見れないから。(前も書いたことあるけど、和田誠の展覧会の時は、、めちゃくちゃ混んでて、入るのを止めた、、何でよ、、別に後悔してないけど、ブツクサブツクサ、、、)
とにかく気になってた作家の作品が東京で開催されることに感動して、言ったって話でした。見に行ったら、さらにいろんなことを考えた。
さて、作品について………私がどう思うとか、読んでる人は「知らね〜よ!お前の感想とか」と思うかもしれない。僕だったらそう思う。いや、作品の感想を他人がどう思おうとか聞きたいような聞きたくないような。とにかく最高なんで、まだやってるので、行ってください!
ここからは飛ばしていただいて構わないっす。
初期の作品
音楽とかたまに初期の作品が一番良くて、だんだん薄まっていって「この人、今こんな風になってるんだ〜」って人多いけど、今井さんの初期の作品を見て思うのは「ごちゃごちゃしているな〜」ってことだった。2008年とか2010年の頃の初期の頃は気合入ってるけど「まだ定まってない感じ」「パソコン上で2階調化したものをわざわざアクリルで描いている」という印象。よくあるデザインの授業であるような感じだ。「はいはい」と見過ごしてしまうような。もしかしたら作家の中では、もうすでにあったのかもしれない。それが出現してるかどうかは、僕には伝わってこなかった。ストライプからの作品には「ん?何だこれ?」という魅力を感じた。
作家の今井さんも、途中出てくるインタビューの中でおっしゃっていたけど「何を表現すればいいのかわからなかった、何を描くべきか」そんな時代があったと。皆そういうところは通るんだと思う。
ここからどれだけワガママに自分と向き合ってやり続けるか、、これが作家が、前に進むかどうかの分岐点だと思うけど、若いうちはよくわからないもの(だと思う)。
僕はそうだったけど、何を描けばいいかわからなかった時、とりあえず有名な人を見て「すげ〜」「す、、すげえ?」「どうかな〜これ?」とか思っていたものだ。誰かのキャプションを読んで、、「そ、、そうなのか」とか。今ならわかるけど、スゴイとかスゴくないとか、自分で追い求めるものだから、他人の解釈とか評価とかどうでもいいよね。自分が響くか、自分が響かないか、、それだけだから。自分で作る人は、なおさら作品と付き合っていくのは自分自身なんだから、その時、自分が納得できるものをやり続けるべし!と思う。(偉そうだな)
スカートの揺れから着想したストライプ
今井さんは「ふと目にした知人のスカートの布地が人物の動きと共に揺れた」瞬間に「これを描けば良い」と思ったそう。「すごっ」と思うが、これが出会いなんですね。たわいないような、急に現れてきた大きなテーマだったような。これは続けてきた今井さんの粘り勝ちのように見える。無数にある「何を描けば良いか?」という問いに対して、続けて、表現したこと、感動が知らない人に波及していったこと、純粋にこれはスゴイことだと思う。そういう意味で、勝ちだと思う。(何が勝ちで負けかは、この際、どっちでもいいですね)
だんだんストライプ柄が単純化されてくる。単純化されてきて、誰でも描けそうな色とモチーフなったところで「化ける」。誰でも描けそう、、ってのがミソで描けないんですよね。これ。2013年頃の作品を見て「何か個人の想いとか超えちゃったな〜」と思った。「これだ!われ、発見せり!」みたいな。色がだんだん決まってきて「ここに落ち着くっしょ」というところで留まっている色と形に、ドキドキせざるを得ない。
急に、雄弁に語り出した絵。急じゃないかもしれないけど、シンプルになっていくのに、こんなに語って迫ってくるのかよ!と思うとスゴく強いものを感じた。メッセージが伝わってきた。こりゃたまんね〜わ!
意味なんかないかもしれないけど、幾重もの試練のようなものを超えてきて辿り着いた場所のように思えた。それは作家が、空中から世界から取り出したものだ。この人しか取り出せなかったと思うとブラボーだ!
魅力が伝わってきた。一体それはどこにあるんだろうか?何で何だろうか?強いな〜と、ただただ絵の前にいた。単純であればあるほど、絵の持つ強さを感じた。
意味があればあるほど、ゴチャゴチャしてるような気がする。その意味は、何だろうか?それはそれでいいよね。好き嫌いあれ、ゴチャゴチャしてる中にもすっきりした精神のようなものを感じたし、それを見た後で2色とか単純な色と形を見たときは、本当にドキドキした。単純で何かわからないし、何かを表現してるわけじゃないかもしれないけど、スゴく伝わってくるものがあった。それを私は魂と呼んでいる。
一枚の絵じゃわからないけど、何枚か見ているとリズムが出てくる。「この色いいな〜」とか自分が特定の色に反応してしまうことを知った。「あ。俺、この色が好きなんだ」とか発見する。ただ色が塗ってあるだけなんだけど、ドキドキが止まらない。何だ?何でか?何でか知らん。わかんねえ!だから面白いんでしょ!自分の中で意味が生まれてしまった。
ずっと見ていると「そんな難しく考えなくて良いっしょ」という別の自分もいる。いるけど、ついつい自分の中で勝手なストーリーを組み立てて見てしまう。飯を食いながら「これには唐辛子が少し入ってて、クミンの味もするな」とか。ベラベラ喋りたくなる。絵に、解説書が必要ないのは、自分が自分の中で会話したり問いを投げかけたりして楽めるからかもしれない。音にも言えるよね。「この音たまんねぇぇぇ〜」って。そういう音とか絵とかのリズムは本当に最高で、それを野球観戦に見る人もいるだろうし、仕事に見出す人もいるだろうし、釣りだとか、趣味だとか、ほんと、人それぞれですね。
あんまり説明が過多すぎたり、誰かの変なキャッチコピーが前に出過ぎていると「うるせえよ。俺が勝手に解釈するんだから、お前の感想なんていらねぇよ。」と思ってしまう。この人の魂だけ見れればいいんで、他の人は所詮他の人なんだから黙っておいてくれよ!と思ってしまうのだ。
とはいえ、解釈が面白い人も沢山いて「あ〜そうなのか、、政治的に、、モジャモジャもジャ」とか考えるキッカケになったり解釈の仕方や方向を教えてもらったりして自分の幅も増えてきたりするから一概に「必要なし!」とは言えないですよね。
ただ、一番必要なのは、自分がどう思ったかどうか、最初は「好き!」とか「嫌い!」とか「鼻につく!」とか「面白い!」とか「信頼できる!」「胡散くせ〜」とか簡単なことでもいい。全ては自分の解釈!だから自分の判断が間違えてようが、勘違いしてようが、自分が思ったこと、思いついたストーリーが一番なので、私は解釈があってようが、間違えてようがどっちでもいい。だいたいあってる間違ってるって何に対してだよ!と思う。僕にとって作品というものは「自分に何かを呼び、召喚させる手助けをするもの」と捉えている。だから解釈は自分勝手でいいと思っているのだ。僕は暴力的に思うこともある。頭の中は自由だから。
というわけで、何度も立ち止まり、何度か振り返り、もう一度初期の作品を見にいったりして、自分の中で勝手な今井像を作って、インタビューの動画を見た。インタビューの動画は、ある意味作家の気持ちみたいなのが入ってるからわかりやすいといえば、わかりやすい。
だけど先に書いたように大事にしてるのは、見た俺(自分)が、どう思うかどうかなので、インタビューを見た後、作品が興醒めして見えてしまうようなものだったら、見なきゃよかった、、になるだろうし、この辺は微妙だ。(ま。何となくわかるけど)今井さんの場合は「そうか〜そうだったか〜」と思って、もう一度最初から見にいった。すごい面白かった。
ここで気づいたことがある。自分の作品に対しても置き換わるから重要事項としてメモしておく。
1の「自己主張が強いと自己表現が邪魔になる」ってのは見た方も「しょうもね〜もの入れちゃったな〜」って感じで邪念が入って見てしまう。それはストレートに来なくてあえて勿体無いと思ってしまう。せっかく奥にある気持ちが良くても、余計な尾びれ背びれとして見てしまうのだ。いくら頑張っても、スッと出してくるものの強み。逆にそっちの方が、表現としては遠くまで飛ぶよね。
2の丁寧な仕事は本当に素晴らしい。職人的なもので「スゴイ〜」となってしまう。「味」とか「手癖」とかも人間ぽくていいなと思うけど、丁寧さと味をごっちゃにしてはならない。
終わりに
今井さんはスカートの揺れているストライプに出会えて、今の表現に繋がっていっただろうし、この出会いが今井さんの作家人生のスタートだったかもしれない、、と思うと非常に興味深い。ストライプに行き着いたというか。
でもそれはただの一つのキッカケに過ぎなかったのかもしれない。今井さんは言う「スカートを見た時、それ自体を風景として見たので」と。普通「あ。綺麗!」とは思っても絵にしようとは思わないかもしれない。「風景」として切り取ったのは大きい。これがその作家の目であり力だ。ここを粘り強く、自分の直感を信じて描いてきた今井さんのやっぱり粘り勝ちだと思う。何が勝ちかどうかわからないけど、「何を表現すればいいか、何を描くべきか?」という問いには答えれたんだと思う。とにかく素敵だと思った。
「ストライプと揺れ」というテーマを描き続けることによって魂が何度も形になっていって、どんどん純度が100%に近くなっているな〜と思った。
今井さんは言う。「ストライプを描き続けていますけど、最初のストライプと一番新しい作品のストライプの意味も解釈も全然違う」と。表現されているものは同じでも意味が変わってくるって、、ほんと、素晴らしいな〜と思った。展覧会を見てよかったな〜と思いました。
自分は最近、新しい曲を書いていて、歌詞について、何度も何度も問いかけながら「これでいいか?」「これじゃ、何か言い表しているようで、何も言えてない」「う〜ん、これは何も言ってない」「言いたいことが、この言い方だと伝わりにくくないっすか?」「パズルのピースがハマってない感じ」とある曲の歌詞についてずっと悩んでいたので、色々その悩みもフッと解消したような気になった。「あ。自分は間違ってない。ここを掘ればいい!」と思って、書いていた歌詞でOKなところをNGなところがくっきり見えた。私にとって展覧会はこういう視界が晴れるという力を持っている。1700円の価値はあると思っている。これが自分の絵に対する向き合い方。牧師に悩みを聞きに行くような感じだろうか。カウンセラーにカウンセリングしてもらうような。自分で悩んでることを、自分で解決するような。
展覧会で感想もメモしていたけど、ずっと歌詞を1時間くらい書き直していた。「これは違う。うん、これこれ。」とか。その歌詞も、今では原型がないくらい変わったけど、何度も書き直した。
ようやく本日の朝4時くらいに「これだ〜」ってピースがハマってドキドキしました。このドキドキが伝わればいいと思うんだけど、こういう「これだ〜」ってのが曲になってます。「来た〜」とか自分では思ってるもんだからしょうがないですよね。でもそれが一番楽しい今日この頃です。(最後自分のこと書いてしまった笑)
追記
府中市美術館で今井さんの公開制作があり見に行きました。2023/9/2
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