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ふーアーゆー展 〜カラーコーンの歌〜

「ふーアーゆー」展が終。

搬入、オープニングイベントを終え帰り道、「我ここに来た」と「予想よりも高いぞ」という驚きの二つの気持ちが入り混じっていた。あとの事やこぼして拾えなかった事には目もくれず走った。

「ふーアーゆー」展

ふーアーゆー

「お前、美しい」「綺麗な顔してる」「あなた、、残酷な顔」「ファニーな雰囲気」綺麗なコーン、形の変わった珍しいコーン、ええ味出してるコーン、年季の入ったコーン。それらと出会うと興奮するようになった。2体で並んでると「夫婦か?双子か?親子か?」と想像し、沢山並んでると「学校か?」「デモ?」とか思ったりする。自分のルールで気になるポイントはあれど、変わった形、魅力的な色、光の当たり方でついつい立ち止まる自分がいた。瞬時に湧き上がるそれぞれに対しての勝手なストーリー。いつの間にかコーンに出逢うことが、自分のライフワークの一部になっていた。いや、コーンだけじゃない。全てが歌になり、絵にしたい対象物だった。一期一会。気に入ったコーンを見つけると見惚れていた。「置かれとるんか?」「自分の意志で来たのか?」「ここの住人?」なんていう具合に対話している。美術館に来ている時と同じだ。

形だけにとどまらず、コーンの置かれてる場所、状況、天候によって、通常は見えていなかった一部やら裏側を垣間見る事もある。ほぼ毎日通る道でも「朝日に照らし出されて雰囲気でまくってる!」「雪の中に埋もれて頭だけ」「なんか悲しいことでもあった顔だな」などなど語りかける。

最初は変わったコーンばかりに目が向いていたけど、見続けているうちに、いわゆる平凡なコーンも面白く感じる様になってきた。平凡には平凡のストーリーがあり、よく見ると発見がある。違いを見つけるのも楽しいし発見した時が一番ボルテージが上がる。

「でっかいピカピカのビルの前に、ボロボロのカラーコーン。どうしたんだ?なんでこんなところにおるんだ?お金持ちに拾われたのか?しょうがなく雇われている番人なのか?もう少し綺麗な格好してくれば良かったんじゃないか?」


ある時、ふと思った。
外の世界を想像、意味づけ、クローズアップ、切り取り、隠したりしているのは自分だ。勝手にストーリーを作り出しているのも自分だ。となると、、もしかしたらあのコーンをどう捉えるかは、私自身の問題かもしれない。と。

世界は、自分の解釈で以下ようにも捉えることができていると思うと、ファニーに見るも、全く逆に見るも、自分次第と感じる様になった。

もちろん真実はひとつかもしれないが、切り取り方で見え方も変わる。

とか夜中に考えて、タイトルを「ふーアーゆー」にした。

とにかく沢山のコーンの写真に名前をつけた作品。

余談になるが、ひとつひとつに名前をつけていく作業中はテンションが上がった。自分の子供のように。「お!いい名前だね!」「こんな名前あったら素敵だね」「ピッタリじゃん。格好いい名前がついたね~」そんな想いで命名。名前をつけるのが昔から好きである。ピッタリハマった時の高揚感は半端ない。私の変な特技、、趣味だと思っている。名前は想像力を揺さぶられる。詩にも近い。そんな気もしてきた。この沢山のコーンに命名、命名、という作業は何かにつながっている気もした。

そしていまだに、まだカラーコーンを見るとピクピクっと反応してしまう。カメラをカバンから取り出して、、



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