見出し画像

黒ネコのクロッキー②闇ネコ診療室

 もちろんこの近くです。すぐそこの角を曲がったところが入り口ですから。
 さあさあ、お入りになってそのソファに腰かけてください。
 私はご覧の通りの黒ネコ、名前はクロッキーと申します。この診療室の管理人のような仕事をしております。お掃除をしたり鍵をかけたり、こんなふうにお客さまをお連れするのも私の仕事なのですよ。
 私がいつからこの仕事をしているのかお知りになりたいのですか。さあ、本当に我々ネコ族というのはまったく何でも忘れてしまいます。 
 でもずっと昔、ここは助産院だったそうです。この辺りの年寄りネコならば皆さん覚えていますよ。フクという名前のお産婆先生が次から次に何百匹もの赤ん坊を取り上げたことを何べんも何べんも繰り返しお話なさいます。年寄りは昔の話が好きですからね。お産婆先生はずいぶん長生きして最後はどこかで死にました。どこで死んだかわからないから、お産婆先生は年寄りネコの憧れなのです。まあ、現代のネコは人間の目の前で死ぬように決まっていますから。人間の目の前で死んだネコは…おっと、大変お待たせいたしました。この診療室の先生方がいらっしゃいましたよ。いえいえ、おかけになったままでよいのです。我々ネコ族は人間のように初対面の挨拶などいたしません。

 さあ、あちらの少し開いたドアをくいっと頭で押して入っていらしたのは白ネコ先生。こちら側の窓からひらりと降りてこられたのが三毛ネコ先生。三毛ネコ先生はぐるっと部屋をひと回りしてどこかへ行ってしまう時もあるのですが、たいてい奥の洋服ダンスの上に陣取ります。ほら、しっぽをぱたんぱたんさせているでしょう。あれが三毛ネコ先生の挨拶なのです。白ネコ先生はこの事務机の上で何やら難しい本をぺらぺらとめくったりするのですよ。前足をちょこんとふたつ並べて、うっとりした顔で外を眺めていることもあります。
 ここは闇ネコ診療室。
 こんな真っ昼間なのに闇ネコなんておかしいですって?
 最近のネコはそれほど夜更かしではありません。昔のように真夜中の寄合いもありませんしね。闇ネコというのは、この辺りの年寄りネコが大活躍した頃の名残り。ずっとずっと昔に、我々ネコ族が大勢でにぎやかに暮らしていた時代があったのだと年寄りは言うのですが、私にはよくわかりません。昔というのはどの辺りのことを言っているのかも、実はよくわからないのです。あなた様はわかるのでしょうね。去年のあの頃とかいうところには、何か特別にしるしでもあるのですか。何度も申しますように、我々ネコ族は本当に何でも忘れてしまいます。とくに私などは、あの世にいたりこの世にいたり、いえ、何でもございません。ですから、白ネコ先生と三毛ネコ先生がどこからいらしたのかも私はまったく知りません。ネコというのは案外お互いのことに関心がないものです。聞いたとしても忘れてしまうのですから、同じことなのです。
 さて、先生方の準備が整ったようですよ。あなた様はいったい何をお知りになりたいのですか。いえいえ、先生方は眠ってしまったわけではないのです。我々ネコ族は人間のように面と向かって話したりいたしません。そうしたくともネコとあなた様とでは言葉が違うのですから。
 私はどうなのかですって?
 私とて先ほどから何も話してはいませんよ。何を驚くのですか。少しもおかしなことではないのですが。きょろきょろなさって。そんな大きな声を出していかがなさいましたか。なんと、もうお帰りになるのですか。
 ええ。どうぞお気をつけて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?