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vol.276 写真展が増えている事について

今回は多分に私見が含まれます。
と言ってもこう言うところは私見を述べる場だと思うのでそれは見てくれている人も理解していると思って話を進めましょう。

最近、名古屋界隈でいろんなポートレート写真展が増えている。

以前にも書いたような気がするがポートレート写真展の開催頻度、回数としては東京には及ばないがここ名古屋でも展示そのものは増え、その結果として「展示疲れ」と言う言葉を聞くまでになった。

この「展示疲れ」実は2方向から見た感覚的な意味を一つにまとめており的を得ていると思う。その2方向というのは展示する側から見た視点と展示を見にいく側からの視点である。
では、展示を見に行く側からの視点から見た「展示疲れ」とはなんだろうか、それは展示が多すぎて全て見に行けないという真理的な負担であり、展示する側から見た「展示疲れ」とは展示に出展することそのものに疲れてしまうことである。

展示を見に行く側から見た「展示疲れ」
これはポートレート写真展が多すぎて全て見に行くことができず、また見に行けない事に対して罪悪感を多少ながら感じてしまう事が展示を見に行く側の「展示疲れ」だと自分は感じている。

名古屋界隈のポートレート写真展は増えたが実際にはそんなに開催できる場所もないなどの物理的な制約と増えたと言っても絶対数(分母)がまだまだ多くないので会期が重なることがあまりない。
そのため、今週は〇〇展示を見にいって、来週は◾️◾️展示を見に行かなきゃという強迫観念に近い感情、参加してるカメラマンさんが自分の展示見にきてくれたから見に行かなきゃ行けないという感情もあると思う。そういった感情や心理状態が見に行く側に「展示疲れ」として重くのしかかるのだろうと自分は考えている。

また展示する側の「展示疲れ」は言うまでもなく展示に出ることに疲れてしまうことで、展示をするにしてもお金がかかるのに完全に自己満足の世界なのでどうしても先立つものがないと続けられない。
展示会に合わせて作品を考え撮影し、印刷、準備、展示、在廊、撤収そして日常生活へ。それを繰り返すうちに展示そのものが嫌になることが展示する側の「展示疲れ」の原因なのだろう。

ただ、自分としてはこういう言葉が生まれたことは変化の兆しであり、界隈がまた一つ良くなるためのステップだと考えている。
「展示疲れ」は急激なポートレート写真展の開催回数増加に伴う副産物であるが、これを乗り越えた先にはまた違った名古屋のポートレート写真展の姿があるように感じている。

展示疲れという言葉を聞くようになって久しいが、最近の名古屋の写真展ではなんとなく見に行く側のフィルターがかかっているように感じる。つまり見に行く価値があるかどうかをなんらかしらの価値判断で決めて自分が見たい展示にのみ脚を運ぶというステージに移行しているように感じる。

もし自分が感じていることが現実に起きているのならばこれからのポートレート写真展は集客がとても大変になると思う。2022年に自分も参加したTOYBOXはメンバーのSNSを使った告知の熱量も高い上にまだまだ写真展が少ないという時期も相まって集客は伸びたが写真展が増えて見に行く写真展をふるいに掛けられるようになったと思われる昨今ではもうTOYBOXのような集客は望めないだろうと考えている。

そしてこれから先、写真展を開催するにあたって人を呼べるとは何かを本気で考えるステージに入っていくのではないかと思う。
人を呼べる。それは開催場所だったり、コンセプトがあったり、カメラマンの認知度だったり、展示に協力してくれるモデルさんの人気だったりとさまざまなマーケティング要素も重要になり自己満足としての写真展として終わるのか多くの人に認知される写真展として終わるのかの二極化の始まりが「展示疲れ」という言葉から自分は感じている。

では、また。


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