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小説・海のなか(10)

 問いが口を離れてから、随分と長い空白が訪れたように感じた。それは問いかけ自体が無に帰っていく様な時間だった。奇妙だ。この沈黙は重くもないし、ましてや心地よくもない。だから私もなんだかまた話し始める気にもなれず、ただ、だらだらと味わっていた。夕凪の心のあり様に引き摺り込まれていくような、そんな感じだ。気配がひたひたと場を侵していく。
当の夕凪はというと、窓から見える庭を眺めていた。夕凪は何かを考えている。それしかわからない。横顔からは痛々しいほどの一途さだけが読み取れた。
 誰だろう、この女の子は。
 不意にそんな思いが頭をもたげた。そうだ、こんな子は知らない。私は見知らぬ横顔に無言で視線を注ぎ続けた。何故こんなにも惹かれているのだろう。よりにもよってあの夕凪の表情に。
「ある人に会ったの」
 夕凪がようやく言葉を発したのは、待っていることすら忘れてしまった頃だった。にもかかわらず、夕凪の言葉はひどく重く響いた。心が我知らず歓びに震える。その音色にはいつまでも記憶していたいと願ってしまう切実なものが封じ込められていたから。
 そして、それを耳にした時、私は唐突に理解したのだった。今、初めて夕凪と本当に話したのだと。彼女の言葉を今、初めて受け取ったのだと。わたしはわずかに変化する彼女の唇を見つめていた。
 「…それが忘れられないの」
 いまだ衝撃から醒めていなかった。息をすることも忘れて食い入る様に夕凪の表情を追うばかりだった。言葉の表だけならば、恋をしたのだと言われている様なのに、夕凪の表情はそれを裏切っていた。こんな静かな表情で人は恋の始まりを告白するものだろうか。もっと浮き足だった何かがあるはずじゃないのか?少なくとも私にとって恋とはそういうものだった。
 「どんな人?」
 問いが私の口を滑り落ちていった。聞いてどうするつもりなんだーーーと、問うと同時に思った。
「ひとりぼっちのきれいなひと」
「彼は私に優しくしてくれる。けれどなんにも教えてくれない。わたしにはなんにも…」
 押し殺した様な歪みが夕凪の声に聞き流すことのできない重みを与えていた。耳の奥に溜まっていく響きと想いに支配されてしまいそうだ。怖いほど惹き込まれるのはなぜだろう。そう考えてハッとした。気がついたからだった。いつのまにか夕凪と自分を重ねて合わせていたことに。
 人間関係ってやつはいつもそうだ。触れたくて堪らないものに触れようとすること。そんな感情が原動力だ。にもかかわらず、無理に触れようとするとすぐに壊れてしまう。きっと夕凪は触れたいという感情を持て余しているのだろう。きっと初めて誰かに対してそんな欲求を抱いたのだ。
 そう考えてから、不意に陵のことが頭を掠めた。もしも、夕凪が今抱いている感情が恋でないとしても、夕凪の初めての欲求を引き出したのは紛れもない「誰か」なのだ。ずっと夕凪を見てきた陵ではなく。
 あいつでは無理だ。心のどこかでそう分かっていた。陵は意識的に影響を及ぼすことをしないから。無意識に与える影響は別として。そっとそばで見守る。それが陵の優しさだ。そういうところを私は認めてもいるし軽蔑してもいた。
 けれど他人の中に残ろうと思うなら、強力なものが必要だ。特に、夕凪の様に内と外をはっきりと分けている人間にはーーー。彼女はよほどのことがない限りその門扉を他人に対して開くことなどしない。いや、私は一度としてその戸を開くのを見たことがなかった。壁を破ることは容易ではないはずだ。打ち壊してしまうほどの乱暴さがないならまず不可能だろう。ただ見守るだけの優しさなど無為に降り積もるだけで見向きもされないに違いない。
 わかり切ったことだ。すべて理解した上で何も言わなかった。
 何より陵は夕凪のことをわかっていない。夕凪の気持ち悪さも、強固さも。なにもかも。恐らく知らない方が幸福なのだ。そうすれば憧れていられる。そんなあいつの察しの悪さも神経を逆撫でした。だから、目が離せない。けれど、夢を見るような幼い恋にはこんなあっけない終わり方がふさわしいのかもしれなかった。
 「ねえ、沙也ちゃん。どうすればもっとあの人に近づける?どうすればもっと…」
 またしても沈黙を破ったのは夕凪だった。今日はよく喋る。まるで別人みたいに。今まで声も忘れてしまうほど話していなかったのに。彼女をこうまで突き動かすのはやはり「あの人」なのか。夕凪は今までで一番人間らしい顔をしていた。紅潮した頬には生気が滲み、透き通るような肌を美しく魅せている。目には光が宿り、いつもの陰りが消え失せていた。
 「……そばにいるといい。何も言わずただそばにいて、その人が自分のことを話していいと思うのを待ち続けるしかないよ」
「それだけ?それだけでいいの?」
「それだけ。でも、焦っちゃだめだ。押し付けてもだめ。ただ待つこと。それから、自分のことを話してあげるといいかもね。相手のことを知ると自分のことも話したくなっちゃうもんだからさ」
「わかった…」
 夕凪はそう短く答えたきり、何も言わなかった。いつのまにか赤く変わった陽光が差し込んでその顔を染めている。知らないうちに長い時間が経ったようだった。彼女が何も言わないので、私の方もなんとなく気まずい。目の前のカップを掴むと一気に残りを飲み干した。冷め切った紅茶は味気なかった。
 「そろそろ帰るよ。ごめん、長居しちゃった。お茶ありがと」
 半ば立ち上がりながらそう言うと、
「え、あ、うん。玄関まで見送るよ」
 夕凪もつられてもたもたと立ち上がった。
「いや、いいよ、ここで。」
 さっさと立ち上がると、一目散に出口を目指す。幼なじみにとどめを刺してしまったような後ろめたさが足を早めさせる。あれで良かったはずだ。何もしなかった陵が悪い。私は誰の味方にもならない。誰のことも特別に思わない。誰のことも関係ないーーーー。
 変わってしまった夕凪は「悪くない」。
 私はふと足を止めた。喉の奥からまだ上ってくる言葉があった。
「今の夕凪、すごくいいと思う。がんばって、ね」
 本心だった。夕凪をこれほど近しく感じた事は今までになかった。
「ありがとう、沙也ちゃん。わたしもそう思うんだ」
「そう。ならよかった」
 口にはまだ苦い味が広がっていた。後悔のどうしようもない味が。私は正しいはずなのに。
 本当に、無駄な事ばかりしている。

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