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小説・「アキラの呪い」(20)



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 退院が近づいてくると、姉は言った。
「3日後に部屋へ来るように」と。それはまるで独り言のようだった。告げる時、姉は窓の外を眺めたままで一度もこちらを振り向かなかった。頬のなだらかな曲線。俺はそのあわいが夜闇と見分けがつかなくなるくらい、何度も目でなぞった。彼女から呼び出されたことなど俺の記憶にある限り一度もないことだった。だからあの時、俺は少し動揺していたのかもしれない。結局その日、姉は振り向かなかった。視線には気がついていたはずなのに。
 約束した日の暮れ方、姉の部屋を訪れると彼女は頬を赤く染めていた。一目見てほろ酔いとわかった。足取りはたしかなものの、吐く息からは微かに酒の匂いがした。普段ほとんど酒など飲まない姉なのに。思わず俺は瞠目しながら尋ねた。
「何で酒なんか…」
 「酒で誤魔化せるらしいじゃない?色々と。そういう目的で呑んだことなかったけど…悪くないわね」
 そう言うと、彼女は床にどっかりと腰を下ろして俺にも酒を注いだ。一口飲んでみると、そこらに売っているような安酒で、あまり美味くはなかった。本当に酔うためだけに用意したようだった。本当はいい酒が何かわからなかっただけかもしれない。彼女はもともと口にするものに頓着しなかった。特別好きなものもなければ嫌いなものもない。昔から、そんな女だった。
 勧められた酒を持て余していると、正面から拗ねたような目が向けられた。姉は囁くように言った。
 「…呑まないの?まあ、いいわ。あんただっていつか呑みたくなる日が来るはずよ。あたしみたいなやつ家族にがいるんだからね」
 その言いぶりはいつになく自嘲的で投げやりだった。常々思っていたことが裏付けされるような声色だ。姉は全てを等しく無価値だと思っている。それは、自分自身も例外なく。彼女は何かを大切にしない。いつでも、なんでも、投げ捨てられる。そう思い込まなければ生きていけない、そんな自己暗示すら時折感じた。
 姉のうっすらと赤く染まった頬と少し蕩けたような目に慣れないものを感じた。ここまで身を崩した彼女を初めて見た。
 ーーー酔わなければ、話せないことなのか。
 誰だってそういうことの一つや二つあるはずだった。けれど姉に限ってはあり得ないと思っていた。この女はいつだって揺らがず、強いままでいるのだと。
ふと、姉と目が合った。
 「そんなに見なくても話すから。何のためにこんなに呑んでると思ってんの?」
 ケラケラと笑い声を立ててはいるものの、その顔に笑顔はない。口角は無理矢理上げられたせいで引き攣っていた。そのアンバランスさが奇妙なほど恐ろしかった。溢れる直前のグラスのように不安定だ。その揺らぎは俺自身にも伝染するようで、いつのまにか心の底がぐらついていた。その基盤には長らく姉がいたから。俺にはどうしようもないことだった。
 不安に侵されながら、結局は見守るしかなかった。褪せた唇が滑らかに動き始めるのを。干されたはずの酒盃には再びなみなみと酒が満たされていた。
 「一番古い記憶は、多分3歳の時。今でもなぜ覚えているのかわからない程どうでもいい出来事なの」

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 一番古い記憶は、多分3歳の時。今でもなぜ覚えているのかわからない程、どうでもいい出来事。お母さんはとっくのとうにクソ野郎と離婚していて、私とお母さん二人で狭いアパートに住んでたのを覚えてる。ああ、どうして実の父親がクソだって知ってるかって?いつだったか親戚が言ってたわ。借金だけ残して蒸発したって。今では生きてるのか死んでるのかも知らないし、興味ない。
 あの頃一番嫌だったのは、保育所に行くことだった。人に会わなければならないのが苦痛で。毎日帰る時にお母さんは尋ねるのよね。「楽しかったか」「どんなことがあったか」って。でもさ、興味もないのに覚えてるわけがないわけよ。でも答えることがない、って選択肢は残念ながら用意されてなかったわ。そもそも保育所にいる誰の顔も名前も覚えてないのに。能面に囲まれて楽しい?あんたならどう?
 歩、あんたは気づいてたでしょう?私が人の顔と名前を全く覚えられないの…。相貌失認とかとも違う。むしろそういう名前があれば楽だったかもね。初めて会ったその瞬間数秒は思い出せるんだけど、それ以上経つとどうしても覚えていられない。そんな感じ。問題なのはお母さんだった。あの女、いまだに理解できないみたい。私が人の顔と名前を覚えられないのを。ずっと娘の中に普通な部分を探すのに必死な、可哀想な人なのよ。あの人。そんなに普通の子が欲しければとっとと再婚でもしてもう一人産めばよかったのに。…馬鹿な女。血が繋がってるはずなのに、どうしてこうも違うんだろう。
 あの頃の毎日は、そんな繰り返しだった。変わらないことが拷問になるってあの頃知ったの。どこまでも続く平坦でつまらなくてどうしようもない日々にうんざりしてたわ。楽しいこともないけど特別苦しいこともなかった。そりゃあ、片親だからお世辞にもお金があるとは言えなかったけど、特に何かが欲しいと思ったこともなかったし…。時々うちの母親が無理に何か買い与えようとするのを拒むのが大変だったくらいかしら。あの人って、いい人だしいい親だったの…。吐き気がするくらいにね。小学校に上がってしばらくした頃には気がつき始めてたわ。誰も私のことを理解できないのと同じように、私も誰のことも理解できないって。
 そんな時に現れたのが、お父さんと歩、あんただった。正直助かったと思った。私とお母さんのすれ違いはもうどうしたって誤魔化せないくらいだったのに、二人きりだから別れるわけにもいかなかった。でもあんたとお父さんがあの女の理想の家族を作ってくれるかもしれない。…期待は見事に叶えられた。だからこれでも感謝してるの。再婚したあの日からあんたとお父さんはお母さんの家族になってくれた。これで楽になる、って。そう思ったの。

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