渋谷で遊んできた

投稿しようと思ってて忘れてたもの放出②

3月22日。
高校の友人経由で仲良くなった子と遊びに行ってきた。
電車の中でアマプラを開いてWBCを見ていると彼女からLINEが届いた。結構時間にルーズな私なので、5分前に着けばいいやという気持ちだったが甘かったようだ。
山手線に乗った直後、大谷がトラウトから三振を奪い日本が勝利した。歓喜に満ちた画面を見て、その「一瞬さ」を感じた。背景にどれだけのものがたりが隠れていようとも、何かが決まるのはその瞬間なのだと心得た。

この日の目当ては怪文書。マイラボ渋谷で展示されるという話をTwitterで見かけて知った。
この日会った彼女と高校の友人の2人を誘ったが、あいにく高校の友人の都合は合わなかった。

渋谷駅につき、落ち合う。いけるやろ、という心意気で誘ったが、実はサシで会うのは初めてで、会うこと自体も2回目だったのでコミュニケーションに全く不安がなかったと言えば嘘になる。
会話してみればそんな心配は不要であったとわかった。

整理券方式であったから、そこそこ長めの待ち時間が発生した。渋谷をぶらっとしながら昼食をとり、そのまま渋谷をぶらぶら。
お昼は魚屋で食べた。
まんまと店の戦略に乗せられて、PR動画をYouTubeで見ることになったが、それはそれで良かった。

それほど仲良くない人であれば、さぐりさぐりで話すのでどこかぎこちなさが生まれたり、ありきたりで面白みのない会話になりがちだが、彼女とはすでに何回か話したこともあったし、Twitterでの様子を知っていたからそういった点で安心して会話することができた。街を歩いて、この看板欲しいね、なんて会話がとても楽で心地よかった。

流れで松濤文化村ストリートへ至る。個人としては2度目の松濤美術館観覧。
この日は渋谷区民の方々の作品展と写真展が開催されていた。前者は一般の、という言葉の懐の広さを感じられる作品展であった。表現技法は非常に多様で、こうした表現が存在するということを知ることができたということだけでも私にとっては学びのあるものであったし、その中に彼らが何を表現しようとしたのかということに思いを馳せるのはとても楽しい営みであった。また、後者は私のなかにほぼ存在しなかった写真観を、形をもって立ち現れさせるようなものであった。展示された写真はいずれも白黒であり、しかしその表情は豊かで白と黒という平面の中で光を落とし込むようにすることで色という大きな情報を欠いていながら空間の美しさを描いていた。また、印刷も現代のような光沢紙への印刷ではなく、ゼラチンシルバープリントと呼ばれる手法によるものであった。印刷手法によって写真がさらに表情を持ったのではないかと感じた。

無料で見られてしまうのが申し訳ないほどの満足感を携えて、美術館を後にし、近くの公園へ赴く。
ベンチに腰かけて池なんか長めながら、またまったりと話した。平日の公園は親子と近所の児童で賑わっていて、でもその騒がしさは街の喧騒とは違って、穏やかな平日の午後に似つかわしいものだった。

ハトの話をした。ハトの毛並みとか、ハトの住処の話とかだったと思う。
私たちを繋いでくれた友人の話もした。彼女がその友人を形容した、誠実という言葉はありていだけれど、とても頷けるものだった。
遊んでいる子達の話もした。そこから連想して、自分たちの小さい頃の話をした。デパートごっこをしていたらしい。
さっきの美術館の感想も語った。貰った冊子の写真を頼りに感じたものを思い起こしつつ語った。彼女の感想を語る表現力を感じた。

ゆるりとした時間が心地よく、気づけば整理券の呼び出し時間が近づいていた。

怪文書はあたりまえながら不思議ではあったが、内心少し物足りなさも感じてしまった。
しかしこれは展示会への批判というよりも怪文書への気づきを促してくれたように思う。
いわゆる日常をひとつの文脈とおいた時、そこからはみ出したもの、文脈の統一性を乱すものが怪文書や奇人と呼ばれたりする。つまり、怪文書は文脈があるから怪文書たりえるといえる。怪文書を集めてしまうと、そこにはすでに怪文書が怪文書として機能できるような「日常」の文脈は存在しない。ゆえに怪文書では無くなるというわけだ。
また文脈という視点で考えると怪文書として扱われるものは、まわりの文脈とずれているものであると言える。逆にいえばまわりの文脈とずれていれば怪文書になってしまう。
展示されている文書の中には、それなりの文脈とともに提示されてさえいれば、単なる注意喚起ともとれるようなものもあった。
これを怪文書として切り捨てることは、人の声に耳を塞ぐことになる。
もちろん文脈を伴わないことを理由に、その事実関係を否定することもできるだろうから、ある程度正当な判断ともいえる。

しかしそれだけでいいのだろうか。
怪文書として切り捨ててしまうものの中に「本物の声」があるのではないか。

日常生活の中に「怪文書」に見えるものがある。
そのとき、いま一度、それが本当に怪文書であるのか、検討する必要があるのではないかと考えた。
怪文書はある意味で見るものの一方的な解釈で生まれているといえよう。

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